「人の想いの先で」
2017年7月30日
創世記21章9-21節
アブラハムの家族の中で起こった争い。
それは、私たちの世界観を問う物語となっている。
サラは自分の息子イサクが、
側女ハガルの息子イシマエルにからかわれていることに、腹を立てる。
アブラハムに、この親子を追い出すよう訴える。
アブラハムは心を痛める。
イシマエルも自分の息子であるから。
その姿を見て、神は「サラの言う通りにして大丈夫だ」と諭す。
ハガルとイシマエルは、アブラハムの家を追われ、砂漠で死を待つばかりとなった。
その時、神はハガルに現れ、イシマエルを守ると約束する。
イサクとイシマエル。ユダヤ人とアラブ人の祖。
ユダヤ、キリスト教とイスラム教の祖。
彼らが別れ別れになる場面、何が起こっているのか。
アブラハムは問われた。
イサクを取るのか、イシマエルを取るのか。
どちらを取るのか。
どちらが正しいのか。
正しいものはひとつ。
私たちの世界観がここにある。
正しいものと間違ったものがある。
良いものと悪いものがある。
選択を間違ってはいけない。
たったひとつの正しいものを選び、間違ったものは廃棄する。
場合によってはそれを破壊する。
正義のため、正しいもののためには、ひとつのものを追求するのだ。
ハガルは決して褒められた女性ではなかった。
主人を見下す愚かなふるまいをするもの。
イシマエルも横暴なものになると予告されていた者。
一方のアブラハム、サラ、彼らも神の約束を信じない勝手なもの。
みなダメなもの。
その者たちを神は守るとい言う。
私たちは正しいものはひとつだと考える。
こちらは正しく、あちらは間違っていると。
だが、神はどっちも大事だと言う。
どっちも私の愛するものだと言う。
ひとつではない。
どっちも、誰でも、たとえ悪いものであっても、それも大切なものだと言う。
だから主の十字架がある。
間違ったものも大事だから。
敵も大切な神の愛するものだから。
神が愛しているが故、神の子が代わりに罪を背負う。
誰もが神の前に出ていけるように。
誰もに、神が会いたがっているから。
私にとって間違ったもの、悪いもの、敵、彼らを私と一緒になって殲滅してくれるのが神ではない。「彼らも私の大事な子どもだ」と語るのが神。
私たちの世界観。
選別、選択、戦いに執着して目的地に辿り着区のが世界だと考えるか。
愛し合う。
敵をも愛する。
それが必ず実現するのが世界だと考えるのか。
私たちの世界観が問われている。
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