「ひとつになる」
2017年8月20日
創世記21章22-34節
私たちは「ここ」にいます。
「ここ」にしかいることができません。
「ここ」でないところを「あそこ」と言います。
「あそこ」を「ここ」にすることが出来なければ「あそこ」は「あそこ」のままです。
「あそこ」は遠い、関係が持てない。
悲しさ、怖さ、「あそこ」には行けないとのあきらめからから始まります。
「あそこ」は本当に「ここ」とは違うのか。
アブラハムの物語は私たちに問います。
アブラハムは寄留の者でしたが、その力は強大なものになっていました。
領主のアビメレクはアブラハムと協定を結ぶ提案を持ちかけます。
かつてアビメレクは、アブラハムが偽りを言わなければ殺されてしまうと恐れていた相手。
それが対等の申し込みをしてくる。
アブラハムは協定を結ぶにあたり、一つの確認を要求する。
アブラハムが掘った井戸、
それがアビメレクの部下たちが占拠している。
その井戸は掘ったアブラハムに所有権があると認めるようにと。
アビメレク、アブラハムの間で、井戸も含め協定が結ばれた。
その場所はベエルシェバと呼ばれるようになった。
この出来事の少し前、アブラハムは愛する息子イシマエルとの別れを経験している。
側女ハガルとの間にできた子供。
正妻のサラにイサクが出来たことにより、サラから家を追い出されることになる。
アブラハムは非常に心を傷めるがハガル親子を追い出すことに同意する。
追い出された親子は砂漠で死にそうになる。
その時、神の使いがハガルに現れ、親子を未来永劫、守り抜くと約束する。
そして、すぐ側に井戸のあることを告げ、親子は一命を取り留める。
それはベエルシェバでの出来事。
泣く泣く別れた親子。
アブラハムとイシマエル。
「ここ」と「あそこ」に切り離された関係。
「ここ」と「あそこ」が交わることはないと思われていた両者。
アブラハムが掘った井戸。
それは息子イシマエルを救った井戸になる。
アブラハムが領主から認められ、主権が獲得された記念の場所、
それはイシマエルが神の約束にあずかった場所。
離れ離れになった親子
同じ場所で新しい一歩を刻んでいる。
同じ場所にいる。
「ここ」と「あそこ」は繋がっている。
「ここ」と「あそこ」は離れていない。
「ここ」に失われたもの、足りないと思っていたもの、
全てある。
愛するものが「ここ」にいる。
人の目には見えなくとも、私には分からなくとも、
「ここ」は世界と繋がっている。
ここを信じる。
世界への入り口は「どこか」にあるのではない。
「ここ」にある。
「ここ」
平和は「ここ」にある。
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