2月20日 主日礼拝

2月20日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書11章25ー30節

主イエスは重荷を下ろせと言う。
有難い言葉だ。
だが、人は荷物を下ろそうとはしない。
荷台に積まれているもの。
成績、富、名声、評価。
人はそれを集めて来た。
それが多ければ多いほど良いと思ってきた。
荷物は重い方がいい。
肩に食い込む重さは痛いほど幸せだと思ってきた。
「痛い痛い」「重い重い」と言いながら引きずることが正しいと思ってきた。
それを下ろせと言われても素直に聞くわけにはいかない。
私のことを心配しているようで、
「荷物を下ろせ」と言う主イエスこそが私を否定してる敵だと思えてくる。
主イエスは変わらず語っている。
あなたには味がある、光があると。
だが、人の評価、富、
自分以外のものに心が持っていかれると、味は薄くなり、光は消えていくと。
この言葉をいくら語っても理解しない人々に主イエスは苛立ってもいた。
街を象徴にして、今日の聖書の直前では裁きの言葉さえ口にしていた。
その主イエスが今日の箇所では、同じ内容を語る。
荷物を譬えに、固執しているものを手放せと語る。
人々が聞き入れないと分かっている言葉をどうしてまた語り出したのか。
「これは御心にかなうこと」
「全てのことは子に委ねられている」
怒っていた最中に主イエスは何かを発見したかのように語り出す。
人が頑ななこと。
これは御心にかなっている。
頑ななな人々、
これの扱いも、すべては自分の任せられている。
私が示さなければ、人が神の御心を知ることはない。
私にかかっている。
主イエスは何を見つけたのか。
何を決断したのか。
何かを見つけたから怒っていた直後に、誰でも自分のところに来いと言い始めたのではないか。
何を見つけ、何を決断したのか。
重荷を下ろす。
富、評判、権力
それらも、もちろん重荷、執着の対象。
だが私が背負っている荷物はそれだけか。
体、命。
これは自分自身だと思っている。
これがなければ自分は自分でなくなると思っている。
守らなければならない。
執着が始まる。
執着が正義になる。
体、命
捨てられる。
捨てる。
主イエスが見つけたもの、決断したもの。
十字架にかかること。
捨てた時、捨て切った時、何が起こるのか。
復活。
永遠の命。
死のすすめではない。
私の使命
地の塩、世の光
本当の私に気が付く。
心の奥底からしなければならないことをやり抜く。
本当に生きる。
それは私と私以外のものの区別をつけること。
そして私以外のものを捨てること。
その時、真の私が見えてくる。
生きることが始まってくる。
私が私を生きる。
重荷を下ろす。
そこから始まる。
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