5月8日 主日礼拝

5月8日(日)主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書13章10-17節

本日は母の日
アンナ・ジャービスがその母アンを記念して礼拝でカーネーションを配ったのが始まりとされている。
アン・ジャービスは南北戦争で敵味方の区別なく介抱した看護師。
そのアンの姿は母親の心を映し出しているととらえられていたのかもしれない。
アンナ個人の母ではなく、母の本質的な姿がそこにあればこそアメリカ全土に母の日は拡がって行ったものと思われる。
なぜ譬えを話すのかと、弟子たちに問われた主イエス。
人々は見ても見ず、聞いても聞かない、心が頑なだからだと答える。
核心を言っても分からない。
せめて例え話だけでも、聞かせていれば、いつか解釈を始めるかもしれないという期待からか。
主イエスの動機は定かでないとしても、人々の頑なさは現実のこと。
なぜ人々は頑ななのか。
見ているのに、見えないのか。
聞いているのに、聞こえないのか。
何かが、目を覆っているからだろう。
何かが、耳を塞いでいるからだろう。
何が目に貼り付いているのか。
何が耳にこびりついているのか。
それは私が作り出したものだろう。
自分には足りないものがあると信じ込み、何かにすがる。
何かに頼る。
執着、固執をする。
握りしめてはなさない。
怖いから。
自分は不完全と信じ込んでいるから。
握りしめてはなさない。
それが目を塞ぐ、耳を閉ざす。
100倍、60倍、30倍になる「種」を神から与えられているのに、それを成長させられないでいる。
心が硬い。
芽が出て成長するのに相応しい環境になっていない。
私たち誰しもが「種」を成長させたい。
柔らかい心を取り戻したい。
どうすればいいのか。
その答えの入り口が母の日にある。
執着をする心
怯える心
どうしてそのような心になってしまったのか。
「愛」を忘れているから。
実際の母親との関係が必ずしも良好な者ばかりではないだろう。
ただ誰しもが体の奥底で経験としている。
何があろうと、どのような者であろうと愛された経験があると。
守られた経験がある。
母がどのような自分であれ愛してくれていた。
アン・ジャービスが敵味方の区別なく介抱した。
そこに母の本質を人々は見た。
どのような者であれ傷ついていれば介抱する。
愛する。
聖書はこの世界のはじめ人は神に「これで良い」と言われた存在であると告げている。
神から見て何も不足していない。
何も欠けていない。
愛する者
それが私たちだと。
愛されている。
それを思い出せれば、執着、固執は余計なもの、不必要なものになっていく。
怯えはなくなる。
何があっても私は大丈夫。
その時、私の目を覆っているものは消えていく。
塞がれていた耳は開いていく。
頑なな心は柔らかくなっていく。
私が神から与えられたものは大きく成長をしていく。
愛を信じる。
私が心を取り戻す入り口がある。
母の日
私が自らの心と向き合う日としたい。
 
本多記念教会
サイト
https://www.hondakinen-church.com/
facebook
https://www.facebook.com/hondakinen/
YouTube
https://www.youtube.com/channel/UCRRjBPZolWZWF7Z1jedKfqg
【ご案内】
ホームページから献金ができる仕組みを作りました。
こちらもどうぞご利用ください。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

0コメント

  • 1000 / 1000