苦難の次

2018年3月18日

使徒言行録8章1ー25節

教会の歴史

この世界の歴史は常に拒絶と直面をしている。

拒絶に直面しながらも、否定され、潰されながらも、

それでも進むべきものは進んでいる。

それがこの世界の秩序。

ステファノの殉教を機に教会への大迫害が始まった。

拒絶の中で何が進んでいるのか。


 迫害を逃れ食事係りの若者フィリポはサマリアに入る。

そこで福音を宣べ伝え多くの洗礼者を出す。

エルサレムに残っていた使徒ペテロとヨハネとがその事実を確認しサマリアには入る。

そして彼らの上に手を置くと聖霊が降った。

フィリポが行った洗礼に加え使徒が行った手を置いて聖霊を下す行為、

これは何を告げているのか。


この光景を見ていた魔術師シモンが願い出る。

「お金を払うから聖霊を下す力を私にもください」と。


クリスチャンとは一体何なのか。

洗礼を受けたもの、が制度としての説明になる。

洗礼は聖職者から与えられる。

その聖職者はどのように誕生するのか。

按手礼という儀式を通して誕生する。

先輩聖職者が手を置く儀式。

聖職者は必ずすでに聖職者になっているものから手を置かれる。

ふれられる。

そのふれてくれた聖職者を遡れば使徒に辿り着く。

教会の歴史はふれてもらって、ふれて繋がっている。

「ふれる」とは直接の行為。

そこには何の注解も媒介もない。

魔術師シモンは「お金」を挟み込んで「ふれる」伝統を受け継ごうとした。

聖霊、神の業は条件や原因を必要としない。

直接、何もなくとも与えられる恵み。


最初に触れたもの使徒。

彼らは主イエスに足を洗っていただいた者。

「これがなければ私と何の関係もなくなる」と主から言われた者。

主にふれられた者。

ふれられた者は触れにいく。

サマリア

そこはかつては異郷の地、呪われた地。

ふれてはいけない人がいた所。 

その者たちにふれにいく。

誰に対してもふれに 行く。

それが福音。

そしてふれられた者は何でもふれることができると知っている。

理想、目標、夢。

諦めてしまった未来。

挫折した計画。

ふれることができなっかたものを人は持っている。

しかし私たちは知っている。

必ずさわれる。

何でもできる。

みんなと愛しあえる。


拒絶と直面しながもこの世界で進んでいること。 

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

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