神の広さ

2018年6月10日

使徒言行録10章44ー48節

「この人たちが洗礼を受けるのに何の妨げがありますか」。

異邦人コルネリウス達に降った聖霊を目撃したペテロが語った言葉。


使徒言行録の記述に従えば「洗礼」と「聖霊が降ること」は結びついたものとなっている。

サマリアに赴いたフィリポは信仰を持った人々に洗礼を授けた。

そこにペテロ達が到着して聖霊を与えた。

サマリアはかつては同じ国。

先に洗礼を授けても必ずや聖霊、神の恵みはやってくると想定ができた。

同じ民族、同じ神に選ばれた民。


エチオピアの宦官にフィリポが福音を語った時、宦官は言った。

「ここに水があります。洗礼を受けるのに何の妨げがありますか」。


エチオピアの宦官、ローマのコルネリウス、異邦人。

彼らと「洗礼」が直面した時「何の妨げがありますか」との表現が登場してくる。

これは何故か。

妨げがあったから。

異邦人に洗礼は関係ない。

彼らに神は分からない。


ペテロがコルネリウス達に会いに行く。

最初、彼は拒んだが神に押し出されそこへ赴く。

主イエスの出来事を語る。

熱心に聞いてくれる。

だがそれは理性レベルでのこと。

情報として共有し、共感するもの。

それで十分と思っていた。

お互い違う価値観を持っているのだから、

違う民族なのだから、

その違うもの同士に共通のものかある。

それで十分と思っていた。

そこに聖霊が降ってくる。

聖霊が降るとかつてペテロたちが経験したことと同じことが起こる。

同じ。

「私たち」と「彼ら」ではない。

みんなが「私たち」。

何の妨げがあるのか。

妨げ。

「許可」「不許可」の間の境界線の設定が妨げを作り出す。

妨げはない。

境界線はない。

神は境界線を認めていない。


敵などいない。

これはつらいこと。

憎しみの対象、境界線の向こう側に置いておくことで安らぎが維持されることもある。

だがその敵とは一体何人か。

妨げがない。

それは誰とでも友になれること。

何人とでも、全ての者と友となれること。

今の敵とこれからの友とどちらが多いか。

敵は本当に敵なのか。


そんなことができるのか。

根拠は?

予想数値は?

確かに理性ではそういう言葉になる。

だが我々は宗教だ。

信じて行く。

希望を持つ。

神話に自らを委ねる。

教会はそうして2000年の時を刻んできた。

 

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