6月11日 主日礼拝

6月11日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書23章13〜22節

イエスとファリサイ派
同じ言葉、同じ表現を共有している。
同じ聖書を大切にしている。
ところがファリサイ派はイエスについて神を冒涜していると言い、
イエスはファリサイ派について行いが伴わないと言う。
どちらも聖書をちゃんと実行しているつもりでいる。
それなのに両者は全く異なる行動をとる。
同じ言葉を共有しているのに、なぜ分かれるのか。
何が違うから分かれるのか。
解釈が違うから。
同じ言葉を共有していても解釈によって、その行動は全く違うものになる。
なぜ解釈が異なるのか。
解釈。
究極的には自分の腑に落ちるもの。
主観的なもの。
ただ解釈学で用いられる表現はテキストが想定している読書になること。
テキストが想定している読者。
どうしたら見つけられるのか。
テキストに騙される。
テキストと共に踊る、
と様々に言われるがテキストの環境と何かを共有しなければ解釈は始まらない。
共有できる環境。
世界観。
解釈をする。
テキストと同じ世界観を共有して解釈は成立する。
ファリサイ派の人々は誓う対象によって、果たす義務の負担が変わると主張する。
誓う対象に優劣がある、と言う。
優劣で世界は整理できる。
ここに世界観がある。
なぜ優劣が正しいと思うのか。
劣だと幸せになれない。
不幸になる。
努力をしなければ不幸に飲み込まれる。
何もしなければ幸福はやってこない。
世界の根底、世界を支配しているものは「闇」「不幸」「悪」だという世界観。
だから神様にすがろう。
神様の言葉を守ろう。
暗い世界に飲み込まれないために。
主イエスはそれは聖書の世界とは違うと言う。
誓いに優劣があるのはおかしい。
そもそも誓いを立てること自体がおかしい。
誓いなど立てるな。
誓いとは何か。
必ず実行するもの。
自分に課した責任。
命をかけた自分の約束。
立派な心がけだが、主イエスは、そんなものはいらないと言う。
誓いを果たそうが果たすまいが神は変わらない。
モーセ五書に記されている出エジプトの物語。
イスラエルの民が立派だったから約束の地に辿り着いたのか。
民はだらしなく、神の期待に反することばかりを行っている。
それでもイスラエルは約束の地にたどり着く。
神は変わらない。
何をしようが神は民を、人を、世界を愛している。
神に愛された世界。
この世界は良い
それが主イエスの世界観。
現実は痛ましいことばかり。
悪がはびこり争いが尽きない。
だから世界は悪いと考えるなら、ファリサイ派が行ったように優劣の世界で高みを極めるしかない。
たとえ暗い現実と直面をしても世界は良いと信じるなら、私たちは慌てない。
私が今日果たすべきことをしていく。
私の賜物。
私の光
私の塩味
私が私で今日もあり続ける。
「私は『ある』と言うものだ」と自らを語る神の世界に生きるものは誰か。

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