9月3日 主日礼拝

9月3日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書26章1-5節

イエスが最後の一週間で私たちに残した言葉。
誰にでも最後は来る。
自らが問われる時。
予定の断絶と直面する時。
その時を迎える。
その時に手遅れになることがある。
備えていなければ、日常を整えていなければ
その時、手遅れになっている。
何もできず、ただ慌て、ただ絶望し、何も考えられず、世界を呪って終わりを迎える。
人生とはなんだったのか。
自分とはなんだったのか。
終わりの時に突然閃くものではない。
日常、毎日、今
そこから備えていなければ虚しさを味わい終わりを迎えるだけになる。
どうすれば良いのか。
イエスは三つのたとえ話を語った。
主人の留守を預かっていた僕の話。
10人のおとめの話。
タラントンの話。
この三つの話に私たちの日常の心構えが記されている。
三つのたとえ話には何が語られていたのか。
主人の留守を預かっていた僕。
主人の戻りはまだ先だと思ってその家で勝手放題をしていた。
そこに主人が帰ってくる。
その僕を追い出す、という話。
10人のおとめ。
花婿を迎えるためにランプを灯している。
花婿の到着が遅れる。
ランプの灯が消えそうになる。
5人のおとめは予備の油を買っていた。
5人のおとめは予備の油がないために慌てて油を買いに行くが、間に合わず、花婿の到着と共に扉を閉される。
タラントンの話。
旅に出かける主人が僕に財産を預ける。
5タラントン預けられたもの。
これを倍にする。
2タラントン預かったものも同様。
1タラントン預かったもの。
土の中に隠しておいた。
帰ってきた主人が精算をする。
5タラントン、2タラントンのものは褒められる。
1タラントンのもの
主人の金をそのままにしておけば良いと思っていたが、叱られクビになる。
三つの話に共通しているものは何か。
失敗をしたものたち。
勝手をしていた僕、油を準備していなかったおとめ、1タラントンをそのままにしていた僕、彼らに共通しているもの。
未来はこんなもんだ。
世界はこんなもんだ、という自分の世界観を疑わなかったこと。
主人はまだ帰ってくるはずがない。
花婿はこの時刻には到着する。
預かった金をなくさなければ大丈夫。
自分の予定、自分の想定、世界観
それを疑うことをしなかった。
私たちが信じている「神」とは何か。
これをもし上手に語れるとしたら、私たちは神を信じていないことになる。
神様を分かっている。
分かるとは何か。
区別を付けられること。
境界線を世界の中に描くこと。
「これ」と「あれ」は違う、境界線。
その境界線が引けないと敵か味方か分からない。
分からない。
境界線のない状態。
境界線が引ける。
分かった。
それは心晴れやかなこと。
だが境界線を引くとは世界を形作ること。
世界は型にはめ、閉じ込めていくこと。
命を奪っていくこと。
私たちが信じている神とは何か。
生ける神
もしそう信じているなら神を分かったとは人は言えない。
ここからここまでが神様、と線など引けるはずがない。
神を説明することなどできない。
何をするのか分からない神。
それを信じていく
それに従っていく、それが私たちの信仰。
自分とは何か。
私たちには塩味がある、光がある。
それはこういうものです、と言いたいところ。
だが、それは自らが自らの命を奪っていくこと。
塩味、こういうもの。
光、こういうもの。
言いたいところ。
だが、私が生きているなら、塩味も、光も私の言葉に収まるはずがない。
生きている。
それは動いていること。
分かる
線を引く、言葉に対応させる。
それは止めること、固定化すること。
命を奪っていくこと。
神、世界、自分
これを「こういうもの」と断定する。
断定したいと思う心。
終わりの日に何もできない。
自分の人生の豊かさを味わうことができない。
疑わないもの
止めようとするもの
そのものは世界についていけない。
世界は生きている、動いている。
神を、自分を規程しようとしても本当の神も、自分もそこから溢れ出していく。
止めようとする思い、「死」
動き続けるもの、「生命」
生命と死
どちらが強いのか。
強いものを身につけることがこの世界の自然な選択ではないのか。
私の心を止めない。
疑う。
この先を信じる。
終わりの時、予定が断絶する時、
止まらない「私」になっている。
永遠を進み行くものになっている。
私たちの終わりの日の迎え方。

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