9月10日 主日礼拝

9月10日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書26章6-13節

イエスの生涯の終わりに起こったこと。
主イエスが伝えたかったこと。
私たちはズレている。
ベタニアで一人の女性が高価な油を主イエスに塗った。
弟子たちはなぜ無駄遣いをするのかと怒る。
その油を売って貧しい人々に施すこともできたのに、と。
これに対し主イエスは言う。
貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいる。
この女性はもうすぐいなくなる私の葬りの準備をしてくれた。
彼女に文句を言うのは筋違いだ、と。
弟子たちは今日はいつもと同じ日だと思っていた。
女性は今日は特別な日だと思っていた。
主イエスは女性を評価する。
今日は特別な日。
今しかできないことを今する。
弟子たちはズレている。
今を、今日の捉え方を。
ここに至るまでの主イエスの譬え話。
それも全部、ズレているがテーマ。
主人の帰りが遅いと思い込んで勝手放題をしていた僕。
花婿は定刻通りに到着をするものと思い込んで予備の油を買っていなかった五人の乙女。
1タラントンを主人に返せば良いものと思い込んでいた愚かな僕。
皆、ズレている。
私の考え、私の予定。
それが現実には通用しない。
私と現実
ズレている。
このズレを私たちはどのように修正ができるのか。
あなたは地の塩、世の光。
神に造られた私。
掛け替えのない私。
この私は他と違う。
弟子たちは今日は他と同じ日だと思っていた。
日にちへの感覚。
自己認識から鍛えられる。
私は他とは違う。
その違いをしっかり認識する。
人より秀でていても、劣っていても、それが私だとしっかり認識する。
他と違う。
それが自覚できたいれば、今日が他の日と違うことに心が感知する。
今、ここ
いつもでもではない。
どこでもでもない
今、ここにしかないものが見えてくる。
主イエスは私たちを「塩」だと言う。
この意味は何か。
味付け、防腐剤程度の「塩」ならば、代替品はいくらでもある。
主イエスの語る「塩」とは命を維持するもの。
命に掛け替えないもの。
私は「塩」だと言う。
掛け替えのないもの。
唯一との意味はもちろんある。
ただ、それだけが「塩」の意味ではない。
命を支える塩。
それは世界を救う「私」だと言うこと。
私の「賜物」
個性ではない。
世界を救う力を私は宿している。
人と比較して秀でている
劣っている。
そんなことはどうでも良い。
人などなんの基準にもならない。
神が与えた私。
この私に世界の命が宿っている。
人は自分の思いと現実とがズレている。
ズレの原因はどこにあるのか。
私が私を分かっていない。
私がズレている。
私を見つめ続ける。
今、ここにいる私が見えてくる。
世界を救う私が見えてくる。
※本日は主日礼拝後、富士霊園へ向かい墓前礼拝を守りました。また、新会堂建築が進んでおります、写真を掲載いたします。

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