9月17日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
マタイによる福音書26章14-16節
イエスが最後にした譬え話。
終わりの時、私たちは皆、分けられる。
他方のものたちの神様は告げる。
私が空腹の時、喉が渇いていた時、食事を水を与えてくれた。
病気の時、牢に繋がれている時、見舞ってくれた。
その者たちは答える。
いつ私はそのようなことをしたでしょうか。
あなたに会った覚えもありません、と。
その時、神様はお答えになる。
あなたの身近にいる小さい者の一人にしたことは私にしたことだ。
さあ、神の国にいらっしゃい。
もう一方の者たちにも告げられる。
お前たちは私が困っている時に何もしてくれなかった。
私から離れ去れ。
彼らも答える。
いつ、私があなたに何もしませんでしたか。
私はあなたに会った覚えがないのでうすが。
神は答える。
お前のそばの小さい者の一人にしなかったことは私にしなかったことと同じだ、と。
この譬えを聞いていた弟子たち。
すぐにカファルナウムで一人の女性に会う。
その者は主イエスに高価な香油を振りかける。
主イエスの葬りの準備として。
あなたのそばにいる小さい者。
その者が必要としているもの、求めているもの
それを与える。
神の国の譬え話に出てきた者と同じことをした。
ところが弟子たちはその香油を無駄遣いした、
どうしてお金に替えて貧しい人々に施さなかったのかと詰め寄る。
師であるイエスを大切にする行為より、貴重な香油の価値の方が尊いと言う。
イスカリオテのユダ。
十二弟子の一人。
祭司長にイエスを引き渡す交渉をする。
銀貨30枚
それでユダはイエスを売り渡す決意をする。
師であるイエスより、銀貨30枚の価値の方が尊いとした。
あなたのそばにいる一人にしたことは私にしたことだ。
一人を助ければ神の国に入り、一人を助けなければ神の国から遠ざけられる。
聞いたばかり。
聞いたばかりなのに、一人の小さい者を蔑ろに平気でできる。
十二弟子とは一体なんなのか。
イエスのそばにいながらイエスの言葉が全く体に入っていない者たち。
マタイ福音書はこれを記録する。
単なる記録ではあるまい。
読者に問うてくる。
これはあなたではないのか。
香油、銀貨30枚、これに劣るイエスとは一体何者だったのか。
弟子たちはイエスの言っていたことが分かっていない。
難しかったのか。
大切なことと感じなかったのか。
イエス様は好きだが、イエスの価値を弟子たちは分かっていない。
イエスは何を告げた者なのか。
マタイはそれを明瞭にするために福音書を残した。
あなたは地の塩、世の光。
これを語った者がイエスだ。
人には賜物がある。
タラントンの譬え。
5タラントン、2タラントン、1タラントンそれぞれを主人から預かった僕たち。
5タラントン、2タラントンの者たちはそれを倍にした。
1タラントンのものはそれを土の中に隠していた。
自分の賜物、自分の力
それに見向きもしないで、それを疎かにする。
家のことを任された僕
主人がいないのを良いことに好き放題する。
主人が早く帰ってきて見つかり、追い出される。
花婿を出迎えるのが仕事の乙女たち。
花婿の到着が遅れてランプの油を切らせてしまう。
油を買いに出かけている間に扉は閉ざされ中に入ることができなくなる。
彼らに共通していること。
自分の務めが分かっていない。
自分が何をしなければならないのか。
それを実行するために何が必要なのか、考えていない。
自分の務めに忠実なら・主人がいようがいまいが、家の仕事をしたはず。
自分の務めに忠実なら予備の油を買っていたはず。
自分の務めに忠実ならタラントンを倍にしていたはず。
自分の務めに忠実なら、自分の傍の小さいものの求めに答える姿勢になるはず。
私の賜物
私の塩、光
それを思い出す
それに忠実になる。
塩
人の命を救うもの。
光
世界に希望を与えるもの
私
塩、光
世界を救うもの。
私が世界をきちんとさせる。
世界がどうしてきちんとなっていないのか。
私が自分の塩を捨てて、光を隠して、誰かの言いなりになっているから。
その誰かも、誰かを恐れて、自分を見失っている。
誰もが塩、光を隠していく。
世界が闇に覆われていく。
私は塩、光
これを思い出させてくれたイエスより、銀貨30枚と香油の方が価値があると思う弟子たち。
イエスを分かってないのではない。
自分を大切にしていない。
自分を見つめようとしていない。
自分と格闘をしていない。
もっと考える
これが私か
もっと考える
真の私とは何か。
私に近づいていく。
神が分かってくる。
神に近づいていく。
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