10月1日 主日礼拝

10月1日 世界聖餐日
主日礼拝 礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書26章26〜30節

主イエスと弟子たちの最後の食事
聖餐式の始まりとなった出来事。
主イエスは弟子たちに自分の体だと言ってパンを食べさせる。
自分の血だと言ってぶどう酒を飲ませる。
弟子とはイエスを食べたもの。
教会は聖餐式で主イエスを食べている。
なぜ食べるのか。
生きるため。
生物は生きるために他の命を食べている。
弟子たちに自らを食べろと勧めた主イエス。
弟子たちをなんのために生かしたのか。
弟子たちはなんのために生きているのか。
それは私たちも同じ。
私たちは聖餐式に与りなんのために生きるのか。
答えは明瞭。
キリストの如くなるために生きている。
主イエスと同じことをするために生きている。
それはどういうことなのか。
この食事は過越の祭りの食事。
過越の祭り。
イスラエルにとって大切な記念。
かつて奴隷だったイスラエルがエジプトを脱出するきっかけになった出来事。
エジプトで神に命じられたモーセはエジプト王ファラオと交渉をする。
イスラエルの民をエジプトから解放して欲しいと。
交渉に応じるかのようなファラオであるが許可をしたかと思うと前言を翻す。
そんなやりとりが何度もあった末に神様がモーセに告げる。
これからエジプトの初子をすべて撃つ。
ただ、鴨居に仔羊の血が塗ってある家は通り過ぎる。
その家の子供は殺さない、と。
神は言われた通りに実行する。
エジプトの初子はすべて殺され鴨居に血が塗ってあった家、イスラエルの家族だけが免れた。
これをきっかけにイスラエルはエジプトを出ることが可能になった。
そのきっかけの出来事
神が通り過ぎてくれる。
過越してくれる。
それが過越の祭りとなった。
主イエスの最後の晩餐、翌日の十字架、過越。
これらは重なり合って私たちに何かを伝えようとしている。
過越の出来事とは何か。
奴隷という日常から、解放という転機を迎える。
世界が大きく変わる。
世界が大きく前進をする。
世界が前へと進む時、必要なもの。
世界が前に住む時、そこでは必ず血が流れる。
血、犠牲、命、それが世界が進む時には必要になる。
主イエスの十字架。
これまで人は終わりの時に神に裁かれ、叱られると思っていた。
人生の終わり、死とは叱られるために行く所。
暗いものが私たちを待っていると思っていた。
主が十字架にかかる、甦る。
この世界には赦しがある。
怒り、裁きが最後ではなく、その先に赦しがある。
人は暗い所に向かっているのではない。
明るい所に進んでいる。
主イエスの犠牲によって変わった世界観。
世界の前進は犠牲があって始めて動き出す。
私たちはなんのために神から生かされているのか。
キリストの如くなるため。
犠牲になるために生かされている。
それでは犠牲とは何か。
あなたは地の塩、世の光
私たちには世界の命になりうる塩がある。
世界を明るくする光がある。
皆、それを持っている。
それはいつ使うのか。
主イエスも自らの「塩」「光」を知っていた。
私の時
と主イエスは時々言う。
私の時
塩、光を世に示す時。
全てを捨てた時。
私たちは色々なものを持っている。
家族、富、名声、地位、予定、計画。
色々なものを持っている。
なんでもいいからそれを捨てろと言うのがキリスト教ではない。
私がもし、どこかで、ここが私の塩、光を世に示す時だと感じる、その時、
計画、富、地位がもし邪魔なら、それを捨てるのではないか。
他者から愚か者と誹りを受けるかもしれない。
常識と符合しないものとの自覚もある。
そうであってもそれらを手放す。
私はこのためにここまで生きてきた。
これを果たすことが私の使命。
それは人からは犠牲としか見えないもの。
その行為は犠牲としか表現できないもの。
だが当人は自分の使命を果たす晴れやかさを味わっている。
「塩」「光」を世に示す。
私が私になる。
これ以上の目的がどこにあるのか。
主イエスの命をいただいて私たちは生きている。
この命、神の前に胸を張って馳せ参じられるよう、使い切りたい。

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