10月8日 主日礼拝

10月8日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書26章31〜35節

主イエスの死が間近に迫っている。
すぐそばにいる弟子たち。
主の言葉を聞きながら、その内容を心に留めていない。
小さい者に、何をしたか
それを神は見ている
それを聞いたすぐ後に香油を主イエスに注いだ女性を叱責する。
それを主イエスから咎められると、今度は祭司のところに駆け込んで
主イエスの値踏みをする。
あなたは地の塩、世の光
世界を救う、導く力があなたにはあると告げている。
自分の力に気が付け。
それを主イエスは語り続ける。
すぐそばの弟子たちですら、自分を探そうともしない。
どうしたら彼らはそこに意識が行くのか。
歴史上、この後、弟子たちは主イエスの言葉を継ぐものとなる。
世界に教会が広がる礎を築く者になる。
どうして、彼らは変わったのか。
人に何が起きれば、自らの塩、光を探すことが始められるのか。
これから起こることを主は弟子たちに告げる。
私が捕らえられ、あなた方はバラバラに逃げ去ると。
この言葉を聞いて弟子たちは否定する。
そんなことはない。
どんなことがあってもイエス様と一緒にいる。
最後まで一緒にいる、と。
実際はイエスの言葉が的中する。
彼らはイエスが捕らえられると逃げ去り、
捕まりそうになると、あんな男は知らない、と言って自らを守る。
だが、もちろん、それが彼らの本心ではなかった。
本当にしたいこと
それは主イエスと共にいること
それができず、悔しさのあまり号泣する。
自らの行いたいことができなかった弟子たち。
全てを失った弟子たち。
彼らのみならず、大事なもの、大切なものを失った者はどうするのか。
最後の最後に人はどこに行くのか。
失敗をした場所には留まれない
留まりたくもない。
苦労してきたところにも行きたくない。
同じことを繰り返すことが分かっているところをわざわざ選びはしない。
大切なのも、全てを失った者はどこに行くのか。
故郷に帰る。
そこに家族、友人の有無は問題ではない。
自分の原点
逃れられない自分自身
それがどんなに惨めなものであっても、自分自身に立ち返る。
自分に帰る。
故郷に帰る。
そこにしか全てを失った者は行くところがない。
弟子たちの故郷
それはガリラヤ
お前たちは私は見捨てる
そう弟子たちに告げた主イエスはこれに続けて語る。
「あなた方より先に私はガリラヤに行く」
弟子たちを追いかけて行くではない。
先に行っている。
待っている。
行くところがなくなった者が最後の最後にたどり着く自分自身
故郷
ガリラヤ
そこにはもうイエスがいる。
自分が捨てた最も大切なものがいる。
神がいる。
地の塩、世の光
弟子たちはどうして、これを求めるようになったのか。
国で評判のイエス様の弟子
人を救い、助け、知識人たちをも論破する力に溢れたイエス様の側近
そんな肩書きを全部失い、全部捨て、本当の自分。
何も持っていない自分を知る。
ガリラヤ
自分自身
本当の自分がいるところ
そこは神がいるところ
神と出会う
自分と出会う
塩、光
私の力を知る
私をちゃんと知る。
弟子たちはちゃんと自分の力を理解した。
塩、光を理解した。
ガリラヤの漁師が、徴税人が2000年後に世界中にある教会の基となった。
ガリラヤに行く
何もない
何にも頼れない
そこは人が最も強くなれるところ。
自らに宿る神の力を知るところ。
ガリラヤに行く。
何も持っていない私
本当の私
ガリラヤへ行こう。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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