10月22日 主日礼拝

10月22日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書26章47〜56節

私たちはイエス様から何を学んだのか。
ゲツセマネの園で苦悩に満ちた祈りをイエスはする。
苦き盃を取りたまえ。
されど神の御心がなりますように。
相反する未来と直面し苦悩の祈りを捧げている。
その祈りの直後、ユダに導かれて手に剣と棒を持った群衆がやってくる。
イエスを祭司たちに引き渡す。
ユダの目論見。
ただユダはイエス様に叱られての腹いせ程度のこと。
イエス様が少し痛い目に遭えば良いと思っていた。
この後の展開をユダは全く想像していない。
何も想像できないユダはイエスに近づき接吻する。
それを合図に群衆はイエスを捕らえようと襲いかかる。
イエスと共にいた者の一人が剣を抜いて祭司の手下に傷を負わせる。
それをイエスはたしなめる。
「剣を納めよ。私が父に願えば今すぐ十二軍団以上の天の軍勢がやってくる。
しかし、それではどうして神の御心を果たすことができようか」
ゲッセマセの祈りの後、主イエスの心は定まっていた。
苦き盃を受ける。
十字架にかかる、と。
もはや神に助けを求めない。
この状況を引き受ける。
神の御心
十字架
そこで十二弟子は、人々は、私たちは知る。
人はイエスの言葉が分からない。
神が分からない。
何度も言われてきた。
あなたは地の塩、世の光。
私たちには掛け替えのない使命が、力が与えられている。
それを果たせ。実行しろ。
何度も言われたが、それが実行できない。
自分以外のものに心奪われ、それらにすがり、支配される。
自分が自分でなくなる。
塩も光も埋めてしまった。
自分を信じられない。
神を信じられない。
神などいらない。
本当の自分などいらない。
イエスはそれを取り戻させようとした。
しかし、すでに自分を失っている人々にとっては、
その言葉は人生設計を狂わせる雑音、騒音にしか聞こえない。
イエスは自らの地の塩、世の光を見出した。
見出し、それを実行した。
天の軍勢を呼び寄せる。
それもイエスだからできること。
イエスの地の塩、世の光のひとつ。
私たちは「地の塩、世の光」は自分の賜物、
自分に与えられた力だと思っている。
それを発揮することが自分のしなければならないことだと思っている
天の軍勢を引き寄せる。
イエスだからできること。
それをすれば人は驚きイエスの力の前に人は平伏し、
宣教活動は成功するはず。
だがそれでは人は何も変わらない。
何かにすがれば幸福になれると思い込む蛇に唆されたアダムとエバと何も変わらない。
人が知らなければならないこと。
人は神を知らない、ということ。
そのために主イエスが行ったこと。
自分の地の塩、世の光を捨てた。
自分自身を捨てた。
捨てた結果、何が起こるのか。
神の世界が、神の真実が現れてくる。
人はなぜ自分以外のものにすがるのか。
自分ではどうすることもできないものと直面をしなければならないから。
自分では打ち勝とうとして敗北しかない死と直面をしなければならないから。
自分の力ではどうすることもできない。
自分ではダメだ。
自分はダメだ。
自分以外のものがなければダメだ。
自分以外のものにすがり、自分を失っていく。
自分の持っているものを全て捨てたイエス。
自分以外のものはもちろん、自分すらも捨てたイエス。
何もかもを手放した。
捨てた結果、何が起こるのか。
復活
死は私たちが敗北をしなければならない王者ではない。
本当の勝者は死ではない。
命こそが永遠に進むもの。
世界はそのようにできている。
捨てた結果、何が現れてくるのか。
神の世界が、神の真実が現れてくる。
私たちは主イエスから何を学んだのか。
地の塩、世の光
それを見出だし、それを磨き、世に示していく。
だがいつかその先の使命と直面する。
私の塩味、私の光、
それを捨てる。
捨てることでしか表せないものと出会った時、それを捨てる。
地の塩、世の光
自らの「地の塩、世の光」を捨てること
私だからできること
私だからしなければならないこと
「地の塩、世の光」を捨てる
それが誠なる「地の塩、世の光」なのではないか。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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