偶像を作らない
2018年10月7日
伊藤大輔牧師
使徒言行録14章8―20節
本日の聖書の箇所、
最初に足の不自由な者が立ち上がる出来事が記され、
最後は石を投げつけられ倒れたパウロが起き上がる場面となっている。
最初と最後、「立ち上がる」で囲んでいる。
人は誰でもつまずき倒れる。
立ち上がれるのか。
立ち上がれるとしたら、どのようにしてか。
今日の聖書はそのことを語る。
足の不自由な者。
パウロはこの者に「信仰」があるのを認め「立ち上がれ」と声をかけ、立たせる。
投石で倒れたパウロにも信仰はある。
立ち上がる要素、
信仰だと、聖書は語る。
ならば「信仰」とは何か。
パウロの奇跡を見たリストラの人々はパウロたちを「神だ」と賞賛する。
この者たちも神を認めている。
「信仰がある」と本人たちは自覚をしているであろう。
ところが聖書はこういうものを「信仰」とは考えていない。
パウロが記した「ガラテアの信徒への手紙」。
その中でパウロは自らの信仰は
人から受けたものではなく、
神からいただいたものだと何度も語る。
家族からの影響、
友人からの勧め、
牧師からの教育等、
人からのものだけなら信仰にはなっていないと言うことであろう。
まことの信仰とは何か。
リストラの人々はパウロに感動したが、
その後にやってきたユダヤ人たちに扇動され今度はパウロの迫害に手を貸す。
彼らの「信仰」と称されるものが
「まこと」と呼ぶには相応しくないものであることは分かる。
では、彼らの問題はどこにあったのか。
彼らはパウロに驚く。
リストラの人々は、パウロは「特別だ」と思った。
特別
自分にないものも持っている。
それは自分は不足があるという自己理解から導き出される感覚。
自分は不十分。
そう思えば、特別と感じるものになびく。
人に追随することを信仰と思い込む。
パウロはリストラの人々に
自分たちはあなたたちと何も変わらない普通の人間だと語る。
また、神についても
神は雨を降らせ穀物を豊に与え人を守っていると語る。
普通
日常
特別を語ったりしない。
日常の至る所に神はいる。
神が特別なら全部が特別。
あなたも、わたしもみんな特別。
神に十分に恵まれているもの。
何も不足はない。
それは贅沢を望まず質素に生きろとの勧めではない。
この小さい脳で思いつくことは全部、出来る。
まことの信仰。
不足が補われることを期待するものではない。
足りなかったものが獲得できたことを喜ぶことでもない。
すべては備えられている
全部ある
安心し
心、整えること。
信じる
その信仰が人を何度でも立ち上がらせる。
わたしは立ち上がれる。
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