1月21日 主日礼拝

1月21日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

ルカによる福音書 5章17〜26節

動けなくなる。
物語に登場したのは病気を患っていたもの。
だが、これは身体に限定しての話ではない。
動けなくなる。
心が動けない。
明日のことが考えられない。
自分のことが考えられない。
何も考えたくない。
心が動かない。
動けないもの
病気のものがイエスの所に運ばれてきた。
イエスは、その人たちの信仰を見て
「あなたの罪は赦された」という。
物語では動けないものを動かすために必要なもの
それは「罪の赦し」となっている。
動けない原因は「罪」ということ。
それは、そうなのかもしれない。
だが、心が動けない経験のある私たちでも、罪の自覚が明確ではない。
むしろ、人が自分に傷つけてきたから私の心が動かなくなった。
被害者は私で、罪があるのは、その人の方だ、と言いたくなる。
動けなくなった原因が罪とは必ずしも言えないのではないか。
それでも聖書は言う。
動けなくなる原因は「罪」であると。
創造神話で世界の始めに「罪」を生み出したのはアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたこと。
そこで起こったことはなんだったのか。
神は人に伝えた「あの木の実は食べるな」「食べると死ぬ」と。
あの木の実はお前たちに関係がない。
この世界にはお前たちに関係のないものがある。
関わってはならないものがある。
関わる必要のないもの。
そう言われていたにもかかわらず、それに人は関わっていく。
必要のないものを自分のものにしていく。
自分に関係のないもの。
自分と関係のないものと関係する。
それが罪
その結果どうなるのか。
自分が原因で動けなくなることがある。
他者が原因で動けなくなることがある。
過去で経験したこと。
それらは、自分でどうにかできるものか。
私次第で変わるものか。
私にはどうすることもできないもの。
ならば、それは私ではない。
私と関係のないもの。
私でないものを私のものだと抱え込むと心は止まっていく。
未来も同様。
未来を目指すは立派なこと。
だが、未来は自分の思い通りになるか。
私次第でどうにかなるものか。
私がどんなに頑張っても、どうにもならないものがある。
ならばそれも私次第ではないもの。
私ではないもの。
私と関係のないもの。
その私ではないものを私だと思い込むと心は止まっていく。
あなたの罪は赦された。
あなたでないものは手放してもいい。
洗い落としていい。
もう自分のものだと思わなくていい。
この言葉を人は受け入れられるか。
未来の計画を捨てていいのか。
自分の過去、業績、学歴、地位
それが自分以外のものであることは分かっている。
だが、それを捨てては私ではなくなるのではないか。
私を形成しているのは私が努力して集めた私以外のもの。
それを捨てたら、私は私でなくなる。
心に負った傷。
復讐を糧に生きてきた。
それを捨てるのはこれまでの人生をドブに捨てるようなもの。
私が私でなくなる。
どうすれば捨てられるのか。
イエスが病人とその友人たちに見たもの。
信仰がある。
動けるようになる。
張り付いた病は捨てられる。
自分以外のものは必ず剥がせる。
彼らにイエスが見たもの
このものたちは信じている。
「起きて、歩け」
彼らが信じた通りになった。
どうすれば捨てられるのか。
信じる。
自分以外のものは自分ではない。
本当の自分になる。
捨てた先に本当がある。
信じる。
動き出す。

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