4月21日 主日礼拝

4月21日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

ルカによる福音書 24章13~35節

私たちはなんのためにここにいるのか。
私の使命とは何か。
神は
この世の秩序がもしあるとしたら
その中で私は何をすることが求められているのか。
イエスの復活の物語。
それは私たちに人の存在意義について語っている。
エマオという村に向かって歩んでいる弟子二人。
この二人がイエスと出会う。
ところがこの二人、それがイエスと分からない。
分からないままイエスと話し始める。
イエスに自分たちがどれほど期待をしていたか。
祭司長がイエスを十字架で殺したこと。
そのイエスが復活をしたと婦人たちが話していること。
イエス等人にイエスの話題をしている。
そのイエスが二人のものに聖書を使って自分のことを
話して聞かせる。
その時、彼らの心の中で熱く燃えるものが生まれる。
エマオに到着した時
イエスはなおもどこかに行かれようとする。
弟子たちはそれを引き留め、宿を共にするよう準備をする。
食事の時
イエスはパン取り
祈り
パンを裂く
その時、弟子たちはそこにいるのがイエスだと分かる。
分かった時
イエスの姿が見えなくなる。
私たちの使命は何か。
この世は
神は
私たちに何をさせようとしているのか。
物語を確認する。
目の前のものがイエスだと分からない時
イエスは見えている。
目の前のものがイエスだと分かった時
イエスが見えなくなる。
分からない時は見えてる。
分かる時は見えない。
私たちに求められているもの。
分かるもの
それは見えない
分かるものとどのように付き合うのか
信じる。
正義、真実、真理、未来、希望
私たちが、それが分かるなら信じるしかない。
他者と共有できるものとして
見える形でそれらは私たちの前に現れはしない。
大事なもの
大切なもの
信じるしかない。
私たちに求められていること
そしてもうひとつ
イエスの姿が見えなくなった場面
ここにも私たちの使命、なすべきことが語られている。
イエスはパンをとり、祈り、パンを裂く
その時、イエスの姿が見えなくなる。
何が起こったのか
弟子たちはイエスを見ていた。
イエスだと分からずイエスを見ていた。
その方がイエスだと分かった時
イエスの姿が見えなくなった。
この時、弟子たちが見ているものは何か
イエスの姿が見えなくなった時に彼らが見ているものは何か。
イエスが裂いたパン
パンが彼らの見えているもの。
パンだけが彼らの見えるもの。
パンとは何か
糧、食糧
パンはなんのためにあるのか。
パンがなければ私たちはどうなるのか。
結果は誰しもが想像のつくこと。
ならばパンはなんのためにあるのか。
パンとは何か。
人を生かすためにある。
パンを残してイエスは見えなくなった。
そこに私たちへのイエスのメッセージがある。
私たちの使命がある。
パン
取って食べろ
生きよ
私たちが何をしようがしなかろうが
どんなものであろうが
イエスの言葉は変わらない
神の思いは変わらない。
生きよ
誰でも、どんなものでも
生きよ
生きていく
生きる
この世が私に望んでいること
神が私に伝えていること
私の使命
生きる
食べて起こること
それが私に望まれていること
私の使命
エマオの村に入った時
イエスはなおもまだ先に行こうとされていた。
どこにイエスは行こうとされていたのか、物語は何も語らない。
生きる
使命を果たす。
人は、私は
どこに行けば良いのか
生きれば
行くべきところに行ける。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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