喜びのおとずれ
2018年12月16日
森下滋伝道師
ルカによる福音書2章1-7節
私たちが生きていくために必要なものは何か。
多くある中で一番強いのは金であろう。
そして金を出しても手に入れられないものの代表に愛がある事を我々は知っている。
愛の背景には自尊感情が存在する。
自尊感情が低いと他者を愛する事は難しい。
どうやったら変わるか。
他者に愛され、評価される事による。
我々はどうやったら日々喜びの内に生きていけるのか?
イザヤ8:23は「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」と預言する。
ルカに拠ればヨセフはガリラヤからベツレヘムに向かい、マタイに拠ればベツレヘムからガリラヤに向かう。
二つの福音書の記述は矛盾している。
しかし共通点はヨセフはガリラヤに居た時期がある事だ。
4節でヨセフはナザレからベツレヘムは上った。
ガリラヤからユダヤへ、異邦人の地域からユダヤ人の神殿が有る地域へ。
6-7節でイエス様が誕生する。
泊まる場所は無かった。
この事から主イエスを貧しさと差別の中に生まれた当時の闘士とのみ捉える事には危険性がある。
今日の箇所の一番の謎は、ヨセフは何故ガリラヤからユダヤに向かったのかという事である。
聖書学の解釈手法を用いると、
ギリシャ語原典において1節と6節を外枠としたキアスムス(交差法)が認められる。
1節と6節の始めの言葉は「それは成った」(egeneto )である。
1節では勅令が出て、ローマ帝国の支配が成った。
6節では「今や彼らがいる内で、彼らは満たされた、赤子を産む事の日々が」成ったのである。
ルカ1:34でマリアが「わたしは男の人を知りませんのに」と述べるが、
6節においてヨセフとマリアは共に満たされた。
霊によって。
その喜びは7節のように、貧しさの内でもあせる事の無い光である。
そしてここに挟まれた交差の中心は、
4-5節の「ナザレの町を出てユダヤの中へ、
ベツレヘムと呼ばれるダビデの町の中へ、
彼(ダビデ)となる事を通して、
ダビデの家と父祖から」(私訳)である。
イエスはダビデである。
イスラエルを建てる王。
ユダヤにイスラエルが建つ時、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。
私たちもこの時、神では無い全ての支配と障害から解放される。
私たちが支配されているものから真の解放をもたらす主イエスがお生まれになった。
そして今日も主イエスは私たちを招いて下さっている。
0コメント