その先にあること
2019年2月10日
伊藤大輔牧師
使徒言行録17章1-15節
使徒たちの伝道は迫害と隣り合わせ。
迫害をするもの。
それはユダヤ人となっている。
ユダヤ教を信じる者たち。
信仰者。
迫害の首謀者は信仰者。
ユダヤ教だからではない。
歴史はすでに告げている。
宗教は争いを、戦争を引き起こしてきた。
信仰と暴力。
これはいつでも絡み合っている。
パウロ達は暴力を受ける側の信仰者。
ユダヤ人たちは暴力を実行する信仰者。
どこで信仰は暴力と連結するのか。
パウロ達を非難するユダヤ人の主張にはある共通性がある。
教会の言葉が、「自分たちの習慣を否定、変革するもの」に聞こえてしまう。
ローマ人たちも巻き込もうと「皇帝の他に王がいる」と言っていると吹聴もする。
教会の言葉は「新しい」「違う」「これまでを壊す」だから排除しなければ。
教会の言葉は本当に新しいのか。
使徒言行録が記す使徒たちの言葉は旧約聖書を引用し、
これまでユダヤ教が信じてきたものが実現したとするもの。
人々が伝統的に信じてきた言葉。
これまでと変わらない言葉。
新しくもなんともない。
信仰と暴力はどこで結びついたのか。
ユダヤ人たちはパウロたちを排斥しようとする。
力によって。
自分の努力によって。
私がしなければ誰がする。
立派な心がけ。
一方のパウロ。
パウロは「変わらない言葉」を語る。
それはパウロの現実認識の表れではないのか。
何も変わらない。
それがパウロの認識。
何が変わっていないのか。
神は変わらない。
世界を造られた時から、始めから変わらない。
神は世界を見て「良し」と言われた。
この世界が大好きだとされた時から何も変わらない。
神が世界を、私を大好きだと思っている。
ならばどうして私が頑張る必要があるのか。
信じていればいいだけ。
信仰はどこで暴力と結びつくのか。
神が信頼できなくなった時、
神の代わりに自分がしなければと思った時、
神に怒り出した時、暴力が生まれる。
「神は変わらない」との言葉が目障りになる。
何をしても、しなくても私は神に愛されている。
どんなに受け入れがたい現実と直面しても私は神に愛されている。
だから私は自分に執着しない。
信仰は暴力を誘発する。
そして信仰は暴力から解放もする。
信仰
それは執着か、自由か。
私の心が問われている。
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