闇の中で始まる

2019年2月3日

伊藤大輔牧師 

使徒言行録16章25-40節  

パウロとシラスはフィリピの町で役人に取り押さえられ投獄される。

女占い師に取り付いていた霊を追い出したから。

この占いによって金儲けをした者から恨まれ罪を捏造され捕まえられる。


その夜、大きな地震が起こり監獄の扉、鎖が全部はずれる。

目を覚ました看守は扉が全て開いているのを見て囚人が逃げ出したと思い、

責任を取って自害しようと剣を抜く。

ところがパウロが牢の中から大声で叫ぶ。

「皆ここにいる」。

喜んだ看守はパウロとシラスを家に迎え入れ歓迎をする。

そして家族はパウロから洗礼を受ける。   


この話は読み手の気分を良くする話。

だが、この話はそれだけではない。

人の心のあり方。

キリスト者の世界観が語られている。


パウロはこの物語で何をしているのか。

何もしていない。

黙って役人に取り押さえられ、

黙って地震の後も牢にとどまっている。

何もしない。

自分で自分を助けようとしていない。

自分を守っていない。  


自分で自分を守らないと何が起こるのか。

人を助けることができる。

人に喜びを与えることができる。

それがこの物語が私たちに告げている一つの現実。


だが、疑問は残る。

自分で自分を守らない。

それは自分を諦めることか。

自分を犠牲にすることか。

主イエスも、理不尽な咎で十字架に架けられた。

パウロも同じ体験をしている。

パウロ、主イエス、犠牲をいとわない。


キリスト者は自分を諦め、

犠牲にならなければいけないのか。

それが人の目的なのか。

犠牲の覚悟

それが私たちの理想か。

おそらくそれは違う。


私たちは自分を助けようとする、

私を守ろうとする。

パウロにも主イエスにもそれはない。

犠牲の精神があったからではない。

自分で自分を守る必要を感じていなかったから。

私は私が守るよりもっと大きなものにすでに守られている。

神に守られている。

だから私は自分を守る必要などない。


自分で自分を助けなければならないのなら、

武力も権力も必要となる。

戦いが秩序になる。


自分で自分を守らない。

戦いは成り立たない。


戦いが当たり前と思い込んでいる世界の中にあって

真の平和を指し示す使命を教会は担っている。


自分で守らなくても

私も、世界も大丈夫。 

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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