神の訓練
2019年1月27日
伊藤大輔牧師
創世記30章25-36節
ヤコブ、イスラエル族長の物語。
一国、一民族の祖の話ではない。
人の始め、人の底に眠るもの。
私とは何か。
私を問う物語。
双子の弟ヤコブ。
兄エサウを出し抜いて、一家の家督を独り占めしようとしたもの。
母リベカの応援があったとは言え、
それを実行したヤコブにもその思いはあった。
父からの祝福を奪えば自分が長になれる、なりたい。
その結果、エサウの怒りを買い家から逃げ出し、
叔父のラバンのところに身を寄せる。
そこでヤコブは働きが評価され、歓迎もされるが、ラバンに利用もされる。
ラバンの娘、レアとラケル、二人を妻とするが、
どちらが多くヤコブの子供を設けるかの争いに巻き込まれ翻弄される。
ヤコブは家族に振り回されたもの。
家族とは何か。
私と何か。
自分を見失い、
迷走するのが、
家族の中の私。
そのヤコブが自らの意志を表す。
「自分の故郷に帰る」。
これに対しラバンは「何を報酬とすればいいのか」と問う。
実はこの問いはかつてもなされた。
その際、ヤコブは報酬の中身を申告した。
「ラケルと結婚をしたい」。
その要求を逆手にとられヤコブは14年、働くことになった。
「報酬の望みは何か」。
ラバンの問いに対しヤコブは「いらない」と答える。
報酬、目的、
それを得るためには条件を獲得しなければならない。
目的のために「条件」に支配される。
かつてのヤコブは「支配」を受け入れていた。
支配のもう一つの側面「依存」。
ヤコブはラバンへの依存も実行していた。
支配、
依存、
それが家族の中のヤコブ。
私の姿。
かつて家を追われラバンの助けを求めようと旅をしていたベテルでの夜。
ヤコブは夢を見ていた。
神が必ず連れ帰ると告げる夢。
必ず守ると約束される夢。
人には帰るべき所がある。
神と約束した場所がある。
人に依存し、支配されている時には見えなくなっているところ。
家族という絶対的支配、依存の関係。
絶対の先に、まだ地平は広がっている。
神との約束。
人は自分の行くべきところを思い出すため、神の訓練を受けている。
私の行くべきところ。
すでに知っているはず。
私の使命。
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