見えなくても喜ぶ
2019年1月13日
森下 滋伝道師
申命記29章:9-20節
コロサイの信徒への手紙2章:1-5節
私たちは見る事が出来る。
そして人生やこれからの将来を予測する。
しかしそうして立てた計画や思いに沿って生きたとして本当に成功するのか。
申命記29:1-3
「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」。
見えていると思っているのは自分の思いだけであり、
本当は何も見えていない。
だから私たちはいつもしるしを求める。
それは私たちが見て、知る事が出来る事。
しるしが与えられない時に私たちはどう生きるか。
申命記29章は呪いの契約である。
主が祝福と同時に私たちと結ばれた呪いの計画。私たちが見ようとしないもの。
この契約は普遍的契約であり、当然現在の私達に対しても有効である。
では誰が呪われるのか。
18節「祝福されていると思い込み」自分は「大丈夫だ」と思う者である。
自分は見えているからと思う者は、一番呪いに近い。
しかしパウロはまだ見ぬ者の為に労苦している。
何故か。
まだ見ぬ彼らがキリストに愛によって結ばれるため。
そして真の知恵と知識を与えられるため。
それは神の計画、神秘、キリストを悟るため。
それらは全てキリストの内にある。
パウロはこの世の目では見ていない兄弟姉妹を愛している。
霊では既に共にいるからだ。
パウロが愛したラオディキアの教会はその後、
黙示録3章では生温い教会と神から告げられた。
黙3:17では自分たちが「目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」と告げる。
本多記念教会はどうか?
神の目には、私たちが見えていると思って立てる目標や計画も必要ない。
では神が求めることは何か?
私たちはキリストの中において、愛によって結び合わされること。
キリストと一つになる。教会と一つになる。
他者と一つになる。
キリストを知らないことは申命記の呪いの契約の内に留まること。
何故私たちキリスト者の日常において、
十字架においてこの呪いを打ち破って下さったキリストが一番の優先事項でないのか?
私たちは悔い改めよう。
「あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。
私は既に世に勝っている」ヨハネ16:33
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