11月16日 主日礼拝
11月16日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録20章17〜24節
100点を取る。
経済力をつける。
私たちが正しいと言っていること。
質問。
それは何のためにするのですか。
100点、経済力は何かのためです。
ならば、それらは「目的」ではありません。
「手段」です。
律法を守る。
イエスは律法を完成すると自ら言いながら、律法で禁止されていることを行いました。
律法を大事に思っているのか、軽んじているのか。
イエスにとって律法は「手段」です。
「目的」は別の所にあります。
神の国
それがイエスの目的です。
何のために100点を取るのか、経済力を身につけるのか?
幸福のため。
それは確かに目的でしょう。
目的が「幸福」ならば、100点、経済力でしか、その目的に到達することはできませんか。
そんなことはないことを誰しもが知っています。
にもかかわらず私たちは100点と経済力を大切だと思い込んでいます。
「目的」に到達するのはこの「手段」しかない。
それは「目的」と「手段」が混乱している状態、区別がなくなった状態です。
イエスは律法を大切にする。
それは律法の目的を大切にしていたから。
それでいて律法を無視するかのような行動をする。
同じ理由。
律法の目的をちゃんと知っていた。
それは「律法」は手段にしか過ぎないと分かっていたから。
人には神様からいただいた賜物がある。
体が部分からなっているように人が同じである必要はないし、同じであってはならない。
違いが必要。
「目的」に辿り着く「手段」
人の数だけある。
イエスがかつて殺されたエルサレム。
パウロはそこに行こうとする。
同じ運命を辿ろうとする。
単なる模倣ではない。
イエスの思いを継承した証し。
手段はいくらでもある。
この命もまた「手段」に過ぎない。
命という手段を通して実現する「目的」。
クリスチャンとはその命の使い方を引き受けるもの。
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