恵みの訓練

2019年6月16日・三位一体主日

伊藤大輔牧師 

使徒言行録20章1−12節  

エデンの園でアダムとエバは蛇の提案により木の実を食べる。

その時から人の歴史は始まった。


「私には足りないものがある」

「私はそれを補わなければならない」。


不足への不安に脅かされ、時に戦争までも始める。

人は不足を補うこと、自分を支えるものに執着する、

それが全てなのか。  


教会に限らず真の宗教はこの問いと向き合っている。

しがみつくものを提示し、それを「神だ」と囁くのは創世記の蛇と同じこと。

神を固執、執着の対象としているものは宗教ではなくビジネス。  


使徒言行録は表面上は教会の歴史についての記述になっているが

その内容は固執、執着から自由への案内。  


不足とは自分の限界を知ること。

私はここまで。

この先は私のものではない。

世界の中で自分の境界線を見つけること、

それは不足品の発見。


使徒言行録20章にはパウロと同行したものたちのリストが記されている。

パウロも、使徒たちもユダヤ教徒。

ユダヤ教はある一面、他者を明確にする傾向を持っている。

「私たちはここまで」。

自国と異国、空間の境界線がはっきりとある。

パウロの同行者のリスト。

ここにはユダヤ以外の者もいる。

こことあそこ。

境界線が消えている。  


パウロが話をしている最中に眠りこけ三階から落ちた若者が出た。

人々が駆け寄ると彼は死んでいた。

パウロはその者を抱えて言う。

「騒ぐな。まだ生きている」。


決定的な不足。

決定的なここまで。

時間の中で人は「死」と出会う。

絶対の不足。

パウロは「死の先がある」と言う。


パウロはこの事件の前後「パン裂き」をしていたとある。

聖餐を連想できる表現。  


本日は三位一体主日。

神様は父、御子、聖霊と三つのお方として世界に関わった。

人の知覚では「三」。

しかしその「三」を知れば知覚では獲得できなかった「一」なる神が現れてくる。

パン裂き。

御子イエス・キリストを食べること。

それは神を食べること。

空間、時間、それを包む神の中にいる。  


人は不足があると思い込み、

足りないものを羅列して獲得しようと騒ぎ立つ。


「騒ぐな」とパウロは言う。

「生きている」。


私たちは時空の世界に存在する「境界線」を超えたものを宿している。

「永遠」が私と共にある。

執着は必要ない。

騒ぐ必要はない。

聖書は世界の真のあり方を語る。

宗教はこれを語り伝えている。 

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