神に導かれて

2019年9月1日

伊藤大輔牧師              

使徒言行録21章37節-22章21節  

キリスト者の歩み、人生とはどういうものなのか。 

パウロはエルサレムで捕えられる。

自分を取り囲んでいる人々に弁明を始める。

自分の生い立ち、主イエスを信じるきっかけ、その後の活動。

パウロ自身の表現では自分はイエスに出会ったと言う。

いなくなったもの。

ないと思っていたもの。

それは本当はあった。  


その後のパウロはただひたすらにイエスの証人となる。

そして自らの命を付け狙っているものがいるエルサレムへと彼は入っていく。  


パウロの人生とはどのような人生だったのか。

主イエスとの出会い。

自分の価値、予定、それが崩れた。

自分の持っているものが通用しない。

なくても良いものを大切にしていたのか。  


パウロの歩みは伝道者として華々しいもの。

だが、よく読んでみると、パウロのしていることはただ神様に言われたことだけを行っている。

どうしてパウロは神の言葉を聞くことができたのか。  


パウロは自分の価値観が通用しない経験をした。

それは私たちの常識では不快なことだがパウロはここに喜びを見出していた。  


自分が握りしめたいものを集め、達成しても何の喜びも生まれない。

人の喜びの予定などその程度のもの。

予定、計画などなくてもいい。

やがてパウロは自らの命すら惜しいとは思わなくなる。

それ故エルサレムに入ってくる。

命を粗末にするのではない。

命に固執するその動機に気がついた。

自分で何とかしようとしている。

命を守ろうとしている。

しかし本来、この命はどこから来て、どこへ行くのか。

神から来て、永遠へと進むのが命なのではないか。

ならばこの命を何故、不十分な私が守ろうとするのか。

それもいらぬこと。  


パウロの人生は自分がすがりついていたものを捨てる生活。

パウロは神の言葉にただ従ったもの。

何故、パウロは神の言葉を聞き取ることができたのか。

捨てることができたからではないか。

しがみつかない。

信じているから。  


私の力により頼まなくなった時、神の言葉を聞く備えが始まる。  


キリスト者の歩みとはどういうものか。

安心して、神の言葉を待つ。

安の時を過ごす生活。 

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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