神様のハンカチーフ

2019年8月25日

森下滋伝道師

雅歌 5章2−8節 

ヨハネの黙示録21章1−4節

 「私が恋の病にかかっていることを、その人に伝え」てほしい。この若い男女は互いに恋をして惹かれ合っている。そして二人はこれから一夜を共にしようとする。当時の結婚観や処女性、婚前交渉などに関する理解は現在のものとは違っている。雅歌は書かれている通りに読むならば若い男女の愛の歌である。では、どうして教会ではそのように読まれてこなかったのか。教会はストレートな性の表現が書かれた雅歌を端に追いやり雅歌の説教を封じて来た。神は人を男と女に創造され、その中に性の喜びと新たな命を与えられる喜びを下さった。しかし現在の社会では性と生殖は切り離され、性は商品化され、性の大切さと喜びについては教会では語られていない。私たちは雅歌を取り戻す必要がある。

 この詩の中で何回も登場する「戸」という単語はヘブライ語原典には登場していない。となると字義的には戸であるが、隠喩としては文脈的に乙女の体である。この恋愛詩に隠された比喩をテクストの上に露わにすることで美しい愛の世界が明かにされる。しかし傷つけられ衣を剥がされた乙女は愛を告白するがこれ以上は彼の後を追いかけることは出来ない。この箇所は伝統的には寓意的解釈により、花婿はキリスト、花嫁は教会と解釈されてきた。ひとこともその単語は書かれておらず肝心の性の喜びは全く取り扱われていない。しかし神から与えられた性の喜びに私たちが愚かにも没頭するとき死は私たちの方へと近づいてくる。

 使徒ヨハネは幻を見ていた。幻は天の様子である。v2の夫という単語は黙示録の中ではここだけで使われ、ヘブライ語ではアダムという語である。つまりこれから新しいアダムと自由な女、新しいエルサレムとの結婚式が始まろうとしているのだ。そのときヨハネは大きな声を聞いた。「神は全ての涙を民の目からぬぐい去る」と。何故神は私たちの涙を拭いてくださるのか。神は泣いたことがあるからである。その涙はノアとその家族が乗った箱舟以外の全てをぬぐい去った。神を泣かせたのは誰か。罪に支配され自分の欲望をコントロールできずに責任を他人に転嫁する私たちではないか。

 衣をはぎ取られた乙女が傷つき苦しむときも、私たちが苦しみに絡み取られているときも、神はいつでも私たちを愛している。神は共に泣いてくださる。だから乙女のように恋しい人を追いかけよう。たとえ傷ついたとしても他人と愛し合おう。あなたはいつ泣いてもよいのだ。あなたはハンカチーフを持っている方にもうすでに出会っている。

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