ひたすら祈る
森下滋伝道師
ダニエル書6章7b−11節
コロサイの信徒への手紙4章2−6節
私たちは一日何回祈っているか?どうやって何を祈っているか?クリスチャン同士はよく言う「お祈りします」と。しかしそれは挨拶や枕詞のようだ。クリスチャンの祈りは他宗教の祈りと何が違うのか?
優れた霊が宿るダニエルを陥れるには、彼が信じる神に関して言いがかりをつけるしか無い事を大臣たちは知っていた。自らが失脚させられた事を知っていたダニエルは家に帰り屋上で西の窓を開き、エルサレムに向かい祈った。「いつものとおり」(v11)に日に三度の祈りを捧げた。彼は膝まづいた。異国においても彼のアイデンティティはユダヤ人であった。「いつものとおり」とは旧約の他の四箇所では全て「東」「東の方から」という意味で使われている。その一つの創世記2:14にてチグリス川とユーフラテス川が登場する。ダニエルはチグリス川の岸でダニエル10:14にて将来に関する幻を見る。東と三とは神の秘密、神秘に関わる象徴である。神に敵対する王は一時、二時、半時の後に滅ぼされる(12:7)。
パウロは私たちに「ひたすら祈れ」と命ずる。何故か?「神が私たちに言葉の戸を開いてくれるならば、キリストの神秘を語れますように」(v3私訳)。これがキリストにより新しく変えられた者の喜びと生活である。神秘を必要な仕方で語り明らかにする(啓示する)事が求められている。時を大切にし、知識と中で外に向けて歩けとパウロは勧める。その言葉は心地よい塩味がついた言葉である。塩気が無いと外に捨てられるのだ。
キリストの神秘を私たちが語らなかったら教会堂に何の意味があろうか。祈らなかったら、外に向けて語らなかったら、どうやって私たちはキリストを証し出来るのか。ましてや神の恵みと力を受ける事が出来ようか。獅子の洞穴に投げ込まれた「ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである」(v24)。あなたは祈っているか?
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