同じ道を
2019年8月11日
伊藤大輔牧師
使徒言行録21章27−36節
日本の夏は平和を祈る時。
宗教は平和を生み出すものと期待されている。
ところが歴史上、宗教は戦争の原因になっている。
どこかの宗教の話しではない。
教会の話し。
私たちのこの教会の話し。
本多記念教会にも戦争の可能性はいつも潜んでいる。
パウロはエルサレムに入る。
教会の者がパウロにとってもっとも危険な神殿に「行け」と言う。
ユダヤ教のものがパウロを捕まえ暴行を働く。
宗教がパウロという神を大切にしているものを迫害する。
これも宗教の側面。
同じ宗教でありながら何が袂を別つのか。
パウロに襲いかかっていた者たちはローマ兵に仲裁に入られ尋ねられる。
お前たちが捕えている者は何者で、何をしたのか。
群衆は各々勝手なことを口にし、誰もちゃんと答えられない。
イタリアの哲学者ウンベルト・エーコはカルトとファシズムに共通してあるもの、
それは「ファッジーな全体主義」だと言う。
パウロを迫害し、
主イエスを十字架にかけた者たちも皆自分の行動を明確に説明できない。
みんながしているから。
ファジーな全体主義。
信仰とは何か。
キリスト教とは何か。
私は何を信じているのか。
それがはっきりしていなければ私たちもファジーな者なのかもしれない。
エルサレムで受難する主イエスも、パウロもなされるがままでいる。
彼らが信じている神も何もしない。
主イエス、パウロ、神。皆、何もしない。
慌てず、目の前の現実をただ受け入れている。
なぜか。
世界のあり方を知っているから。
この世界は初めから神が「良い」と言った世界。
何も足りないものはないとした世界。
その世界を見て「足りない」と言い出したのは蛇と話した人間たち。
「不足してる」
「足りない」。
私たちの感覚。
確かに足りないものがある。
富も、権力も、仲間もまだ足りない。
だが、それはどこまでいけば「もう十分」となるのか。
線が引けない。
はっきりできない。
それがファジー。
パウロ、主イエス、神。
全部あるとしている。
整っているとしている。
「死」という最も大きな欠落。
それすら永遠の命の前では一時のこと。
はっきり見ている。
信じている。
ファジーさはない。
故に慌てない。
騒がない。
足りないと思えば、補い、失わないように握りしめる。
律法。
人々にとってそれは足りないの恐れを解決してくれる頼みの綱。
パウロ、律法は、神は握り締められることを望んではいない。
全部ある。
必要以上にある。
それを信じることを待っている。
平和。
足りないものを補って生まれるものではない。
世界を信じている心が近づいていくもの。
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