あきらめて、信じて

2019年8月4日

伊藤大輔牧師 

使徒言行録21章17−26節 


本日は「平和聖日」

平和は誰かが口にすれば、人の平和。

その人に従うか従わないか。

やがて「私たち」と「あなたがた」を作り出す。

区別が生まれ、

優劣が生まれ、

争いが生まれる。

「平和」は人が口にしてはならないもの。

それでいて誰しもが心で祈っていなければならないもの。

平和とは何か。

一つのヒントがパウロの行動にある。  


エルサレムに到着したパウロ。

歓迎されたが懸念も抱かれる。

ユダヤ人のキリスト者はパウロがユダヤの風習を否定してると思い込んでいた。

この誤解を解くために神殿で清めの儀式に参加して欲しいと長老たちは提案する。

パウロはこれに従い、結果、神殿で捉えられる。  


使徒言行録を読み進んできた読者たちはこの出来事に不自然さを感じる。

パウロがエルサレムに行くこと。

これはあちらこちらで危険だから思い止まれと説得されていた。

そのエルサレムの人々がパウロに迫る危機を知らないはずはない。

にもかかわらず一番目立つ神殿に一週間もいることを勧めるとはどういうことなのか。

またパウロについての評判は風評。

本来ならエルサレムの人々が払拭に当たればいいものを当人に押し付ける。  


パウロは何かにすがって救いの確信を得るというのは信仰ではないと指摘してきた。

私の行動によって神が喜んだり、怒ったりする。

それは神を人が支配できるとする傲慢さだと。

人が何をしようが神は人を愛する。

私の行動などで神の愛は変わらない。

それが恵。

その中に人はいる。

そのパウロの信仰をユダヤ人たちは風習行動を否定していると聞いてしまう。


使徒言行録15章にエルサレム会議の様子が記されている。

「割礼がなくても救われる」と決議した会議。

パウロもこの決議を喜んだ一人。

そのパウロはこの会議の直後、テモテという弟子に割礼を施している。

頑ななユダヤ人を納得させるために。

今日のパウロも同じではないか。

無責任なエルサレムの長老たち。

その長老の提案を聞き入れる。

パウロは異邦人世界を知っている。

これから教会がどうなるかも、

何が必要かも知っている。

先を見ている。

そのパウロは振り向いてもいる。

これまでの者たち、

過去から離れられない人々、

その者たちにも目を注ぎ、

大切に扱う。


自分の方向性と違う者。

その者たちの言葉を聞く。

愛する。

誰であっても愛する。


何かがあるから

生まれたり

何かがないから

消えたりするようなものではない。


何がどうしたって変わらない


私がどんな者であっても神は私を愛する。

私はいつだって愛の中にいる。

ならば、何でも愛せる。


パウロの姿勢。

平和。


何がどうしたって変わらない

愛している。


平和の実現へのひとつの道が示されている。 

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