帰るべきところ
2019年7月28日
伊藤大輔牧師
創世記33章1−20節
私たちの宗教、ユダヤ・キリスト教はどのような仕立てになっているのか。
「善悪の知識の木」の実を食べたアダムとエバ。
命の木が生えているエデンの園を追われる。
その命の木と再び人が出会うのはヨハネ黙示録。
聖書の一番最後。
最初に失ったものと再び出会う。
最初に帰る。
それが大きな仕立てになっている。
人には帰るべきところがある。
これはイスラエルの歴史的体験とも重なっている。
2500年前、バビロニア帝国との戦争に敗れ捕囚の民となる。
2000年前、ローマ帝国と争い、国土から追放された。
自分の居場所を奪われた。
そこに帰ることはできないのか。
その思いと聖書の仕立ては重なっているのかもしれない。
だが、それは一民族だけの思いではない。
人は誰しも帰るべきところがある。
私たちは不足を補うのが人生だと思い込んでいる。
足りないものがある。
失ってしまう恐れがある。
不足と直面しながら、不足と戦いながら人生をすごしていく。
アダムとエバが蛇に「お前にはまだ神のようになれる可能性がある」と唆されたように、
不足を覚えて生活をしている。
聖書は「不足」を感じる人の心を知りながら、
そこが人の根源ではないと語る。
不足の「前」がある、と。
人の帰るべきところ。
そこは私たちに何をもたらすのか。
兄のエサウを怒らせて家を出ることになったヤコブ。
そのヤコブが苦労を重ね、多くの財産を持って家に帰ろうとする。
怒っている兄をなだめるため先に贈り物を先行させる。
二人が出会った時、ヤコブは言う「何でも十分にある」だから受け取ってくれ。
エサウも言う「何でも十分にある」だから受け取れない。
兄も弟も「何でも十分」に持っている。
そもそも二人の諍いは「長子の特権」「祝福」を巡ってのもの。
これを奪ったヤコブは家を出ていくことになったので、これを活用することができない。
残ったエサウはこれを持っていないのだからもはやこれに頼ることはできない。
争ったもの、
自分が欲しかったもの、
必要と思っていたもの。
それを二人とも用いることができなかった人生を歩んできた。
その二人はどうなったのか。
何でも十分にある。
不足を感じるのが確かに人の正常な感覚。
経験、予測、論理からは不足の防止として自らを守る武具を備えることが正しい判断となろう。
だが宗教はその「前」を語る。
その「先」を語る。
何でも十分にある。
それが私を包んでいる。
信じる。
そこから私を、
世界を見つめてみる。
ユダヤ・キリスト教。
数千年、これを行ってきた。
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