真理と会議

2019年9月15日

伊藤大輔牧師                 

使徒言行録23章1-11節  

人は後戻りできない時間を過ごしている。

進んでいる。

どこに人は向かっているのか。

キリスト者はどこへ向かっているのか。


今日の聖書はパウロが裁きを受ける場面。

この出来事を通してキリスト者の進むべき所を考えたい。  


今日の聖書は二つの場面からなっている。

大祭司とパウロの対話。

議場でもファリサイ派、サドカイ派の対立。  


パウロは大祭司に向かい強い語調で批判をする。

これに対し周囲の者から「大祭司への礼を失している」と非難される。

これ受け「まさかこの方が大祭司だとは知らなかった」と素直に対応をする。

また裁判に参加してる議員たちがファリサイ派、サドカイ派であると知ると

ファリサイ派が信じている「復活」「天使」を自分は信じていると主張する。

その結果、議場は混乱をする。  


パウロはすでに囚われること、場合によっては命を落とすことを覚悟している。

大祭司を侮辱してり、議場を混乱させても、パウロにとって何のメリットもない。

目的もなくただ混乱だけを引き起こしているパウロの態度は

裁判をおちょくっているようにさえ読める。  


パウロに主が語りかける。

「エルサレムだけでなくローマに行け」。


主イエスもエルサレムを目指した。

パウロはさらにローマに行く。

エルサレム、ローマ、ここに何があるのか。


エルサレム、ユダヤの王がいる。

ローマ、皇帝がいる。


国を統治するものがいる。

法を発令し、実行するものがいる。

エルサレム、ローマ、

そこは法が行われる所。

裁判の場所。  


キリスト者はどこに向かうのか。

主イエスが、パウロが示している。

裁きの場所へと我らは向かう。


人は誰も裁きに堪えられるものではない。

裁きから逃れたい。

裁きの場所に行かずにすませたい。

だがパウロは裁きの座につき、あの態度をする。


軽んじているような、

おちょくっているような態度。


パウロは裁判を恐れていない。

どのような結果が出ようとパウロは心配をしていない。


パウロはすでに裁かれている。

神に裁かれている。

それでもその先に進める体験を持っている。

だから人の裁きなど恐れず遊んでしまう。


裁き、絶対の終わり。

それは人が思い込んで作り出した世界。

本当の世界は裁きの先がちゃんとある。

赦しがある。


裁きへと臨む。

何も怖くない。

怖いものはない。

人のまことの姿を表すため

裁きの座へと進み行く。

その先

喜びを証しするために 

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