「苦しみの先へと」

2020年1月19日          森下滋伝道師

ヨブ記30章20-23節  ペトロの手紙Ⅰ5章8-11節

ヨブは苦しみの中にて神に叫ぶが答えは無い。

神は私を死に渡そうとされているのか。


 韓国では若い芸能人の自死が相次いでいる。その原因はネット上で浴びせられる悪言にある。自分のやりきれない感情を誰かにぶつける。その相手が死のうとも責任はとらない。しかしそこまで悪言に追い詰められた者は何故教会に助けを求めて来ないのか。信仰の有無にかかわらず主は私たちを招き愛してくださっている。ならば教会は扉を開かず彼女らの声を聞かなかったのでは。事実、日韓共に教会は現代社会からの信頼は落ちている。

 しかし神は言葉をもって私たちに顕現する。「キリスト者として苦しみを受けるなら恥じてはならない」と(4:16)。そして「思い煩うな」と命じる(5:7)。私たちが苦しみに立ち向かう前提はこの二つである。さらに私たちに「目をさましていろ」と命じられる(v8)。私たちのすぐ横を私たちの命を狙う悪魔が獅子のように嗅ぎまわっているのだ(v8)。しかし神は「信仰に固くたち、抵抗せよ」(v9)と語る。この苦しみは信仰共同体である教会も同じくる死んでいるのだと(v9)。どうすればよいのだ。

 いかし神は驚くべき解決法を開示された。苦しみ、悪と戦い傷ついた私たちを神ご自身が回復させ、関係性を確認し、強めて、打ち立てて下さるのだ。神はキリスト・イエスの十字架の苦しみを通して私たちをすでに永遠の栄光へと招いてくださった。子の栄光は「揺らぐことがない」のだ(v10)。だから私たちは私たちの救い主を賛美するのだ。「アーメン」と(v11)。

 イエス・キリストを知るとは、イエス・キリストが教え生きたように私たちも生きることである。そして何よりも悪を拒むことである。このことを教会と教会につらなる私たちが強く信じる事が必要である。教会はこのことを強く外に向かって証しし、苦しみの中にいるものを共同体へと招かなくてはならない。傷ついたものに薬を塗り宿を与えるのだ。教会の扉は開いているか?

 イエス・キリストを知れば私たちの暗闇と苦しみは光へと変わる。閉じた目は開き、苦しみは喜びへと変わる。私たちは苦しみを受ける。キリスト者は誰もが苦しみ、キリスト者は悪に立ち向かいそして傷つけられる。しかし「思い煩ってはならない」。少し傷つくだろう。そして痛みを感じるであろう。私たちの神は癒してくださる。大丈夫。だから信仰に固く立ち悪に抵抗しよう。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

0コメント

  • 1000 / 1000