4月26日

ヨハネによる福音書21章15ー19節 


 【9時(教会学校・こども)礼拝】


 復活をしたイエス様がペテロの前に現れました。

 イエス様がペテロに尋ねます。 

「あなたは私を愛しているか」 ペテロは答えます。 

「はい。愛しています」と。 

しばらくするとイエス様はお尋ねになります。 

「私を愛してるか」 ペテロは答えます。 

「はい。愛しています」と。 

またしばらくするとイエス様が尋ねます。 

「あなたは私を愛しているか」

 ペテロは何度も同じことを聞かれたので悲しくなってきました。  


イエス様とペテロさんはガリラヤからエルサレムへとずって一緒に旅してきました。

 ペテロさんはイエス様のことが大好きでした。  

でもイエス様が兵隊に捕まった夜のこと。 

イエス様が心配で、そおっとついて行きましたが、

色々な人たちから 「お前はあのイエスとかいう者の仲間だろ」 と言われると 

「そんな人は知らない。私は関係ない」 

三回も「イエスなんて知らない」と言い

 最後は「あんな男はどうにでもなればいい」とまで言って逃げ去りました。


 三回「イエス様なんか知らない」と言いました。

 本当はそんなことは思ってないのに、嘘をついて自分を守りました。 

 イエス様は三回尋ねます。 

「私を愛しているか」 ペテロは三回答えました。 

「私は愛しています」 その後、イエス様はいつもこう言いました。 

「私の羊を飼いなさい」 そして最後にペテロに言いました。 

「私に従ってきなさい」


 私たちは前に進めなくなったしまうことがあります。 

今の私たちの生活もそうです。 

予定が立たなくなりました。

 未来が見えなくなりました。

 イエス様を「知らない」と言ったペテロも、

 もうイエス様には会えないと、思っていたことでしょう。 

そんなペテロにイエス様が尋ねたこと。

 それは私たちが何を心に留めていれば前に進むことができるのか、という答えです。

 愛しているか 神様を愛しているか。 


神様はこの世界のもの全てをお造りになりました。 

神様を愛する。

 それは全部を愛するということです。

 私も

 家族も 

お友達も 

この地球も

 宇宙も 

全部を愛するということです。 


全部が大好き 

私たちは「大好き」という心を知っています。

 それを小さなものに向けるのではなく 

大きなものに 全部に向けていく。

 私についていらっしゃい、とイエス様は言います。

 前に私たちは進めるはずです。 

「愛する」 その心を忘れずに進んでいきましょう。



 【10時 主日礼拝】 


ヨハネ福音書は物語を閉じるにあたり奇妙なやり取りを記す。

 主イエスとペテロの対話。

 同じことを巡って三度、やり取りをする。 

イエスが問う 

「私を愛しているか」

 ペテロが答える 

「はい。愛しています」

 何がテーマなのか。


 このやり取りは原文ではもっと奇妙になっている。

 主イエスの尋ねる「愛するか」 

これはギリシャ語では「アガパーン」するか、となっている。

 アガパーン、アガペーの動詞 尊いものを大切にする。

 崇高な「愛」がアガパーン 

 これに対しペテロが用いている「愛」は「フィレオー」となっている。 

フィレオーは友人に対する親しみ。

 軽く、カジュアルな表現。 

やり取りの「愛」は同じ言葉になっていない。

 これは何を語ろうとしているのか。  


ペテロは主イエスが十字架にかかる前の晩に三度イエスとの関係を否定している。

 それは彼の心の傷となっている。

 そのトラウマを解消すべく主イエスは三度、「愛しているか」と尋ねる。

 だが、ペテロは裏切った罪責感から、

素直にイエスの使う「アガパーン」を使えない。 

そして迎えた三回目。 

ここでのイエスの質問の「愛するか」は「フィレオー」となっている。

 ペテロの表現、ペテロの思いを汲み取りイエス様が近づいてくださったというもの。

 ペテロのトラウマをイエス様が取り除いてくださったというもの。 


この解釈も整合性があり、人の心は励ますものであろう。 

だが、私たちは今日、別の解釈を施してみたいと思う。 

注目したいのは次の言葉。 

三度目にペテロが主イエスから質問をされた時に 

「三度、愛するか」と聞かれて悲しくなった、とある。 

この三度「愛するか」の「愛」はフィレオーとなっている。

 これを素直に読むならば、 

ペテロは三度イエス様から「フィレオーするか」と聞かれたと思っていることになる。


 私たち読書は気がついている。

 イエス様の一度目と二度の問いかけは「アガパーン」だと。

 「フィレオー」は三回目だけだと。 

ところがペテロは三回「フィレオーするか」と質問されたと思っている。

 だとしたらペテロは胸を張って答えているのではないか。 

「フィレオーするか」と問われたのだから「フィレオーする」と答えたのだ、と。

 主イエスとペテロ、ズレている。 

ズレているにもかかわらず主イエスは「私の羊を飼いなさい」と勧めている。  

このやり取りは一体、なんなのか。

 このやり取りは物語がもうすぐ終わろうという時のもの。 

読者たちは間も無くこの物語から解放される。

 読者は物語を離れ、現実の世界と向き合う時を迎える。

 その読者の「力」になるものが、この物語のどこにあるのか。 

 

このズレているやり取りは主イエスとペテロに限定されているものではないのかもしれない。

 神様とイスラエルの関係も同じだったのかもしれない。

 神から選民とされたイスラエル。 

神様のことが大好きだと言いながら、

神の心とはズレたことを繰り返してきた。 

イスラエルにだけではない。 

私たちも同じ。

 家族が好き。

 この社会が、この世界が好きと言いながら、

海を汚し、空気をけがし、地球をおかしくさせている。 

今回のウィルスも、私たち人間の自然秩序の破壊から、

本来接触するはずのない動物たちとの接近が生じ、生まれてきたものだと語る者もいる。


 自分が好きで、家族も、この世界も好きなのに、この世界を壊すことをしている。 

私たちもズレている。

 ズレている主イエスとペテロの対話。

 このズレが私たちに語りかけていること。 

そもそも、私たちは何故、この対話がズレていると思うのか。 

それは私たちが「等価交換」こそが、この世界の秩序だと思っているから。


 幸福への道は「等価交換」

 能力が認められれば、「この学校の座席を三年間、あなたに与えます」

 私の能力と学校の間に「交換」が成立すれば「入学」が約束される。 

その後も自分の「持ち物」と交換を繰り返しながら私たちは生活の場を築いていく。 

「富」それと「幸福」は交換できる。 

私たちは信じている。 


聖書は戦争、敗北、どん底を知っていると、何度も確認した。

 聖書は知っている。 

「等価交換」は幻想だと。 

そんなものはすぐに、もろくも崩れ去ると。  


主イエスとペテロの対話はズレている。

 ここには「等価交換」は成立していない。 

イエスの期待にペテロは全く答えていない。 

 等価交換が成立しない。

 ならば、世界はどうなるのか。

 何を信じて行けばいいのか。

 等価交換が成立していないペテロに向かい主イエスは語る。 

「私に従ってきなさい」 

ここに止まれでも、家に帰れでもない。

 一緒に来い

 前に進めと言う。  


イエスと一緒に行くとはどういうことか。 

それがすでにズレた会話の中で語られている。 

「私を愛するか」 

この時点で福音書はイエスを「神」としている。 

この問いは「神を愛するか」である。


 人はなぜ自分を家族を愛していながら、世界を破壊するような方向に進んでしまうのか。

 交換に依存する。 

それは「愛」を限定するから。

 自分の愛したいものだけを愛すればいい。

 もはやそれは愛ではない。

 愛を失えば、破壊への道を辿っていく。

 戦争で敗れたイスラエルが見つけた真実なのであろう。


 神は愛する。 

宗教が神を愛すると言う場合、全部を愛するとなる。  

「この人たちは好きだが、あの人たちは、どうでもいい」

 「神様を大切にしている人たちは愛するが、神を否定するものを愛そうとは思わない」

 神を愛するという場合、

 このような考え方が入り込む余地はない。 


神を愛する 

それは 人も愛する。

 自然も 

世界も 

宇宙も 

災害も、ウィルスも愛する。

 全部を愛する。 


 神が関わっていないものは何一つない 

ならば全部を愛する。 


ペテロは最後、「神の栄光を表す」とされる。

 神の栄光

 神の素晴らしさ 

それは取りもなおさず、神が造ったもの、 世界の素晴らしさ。

 それを表す。

 世界は素晴らしい 

素晴らしい世界 

この世界に生まれてきてよかった。

 この時代に 

この場所に生まれてきてよかった。 

それを実現するものになると言う。


 交換が成立したからではない。

 愛するか 

と問われ

 愛すると答える。 


 私の羊

 この全世界 

そこに喜びを届けるのは

 「愛する」と答えられるもの。  


ズレていても 

何度間違ったとしても

人は必ず愛することの力と出会う。 


人はどこに向かっているのか。 

全てを愛する。 

この世界の素晴らしさと出会う道へと私たちは向かっている。     

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