5月31日ペンテコステ礼拝

伊藤大輔牧師

使徒言行録2章1−13節


 9時礼拝  


イエス様が天に帰られた後のことです。 

弟子達が集まっていた時、突然激しい風が吹いてきます。

聖霊が一人一人の上にとどまります。 

すると弟子達は色々な国の言葉で話し出しました。  


言葉はお隣の国に行くと通じなくなります。 

その国にはその国の言葉があるからです。 

言葉はあるところまで行くことはできますが、

あるところを超えちゃうと、通じなくなってしまします。 


弟子達は自分たちのガリラヤの言葉を持っていました。 

聖霊がくだるとガリラヤよりももっと遠くの人ともお話ができるようになりました。 

どこまでも、どこまでも、誰とでもい話ができます。 

それはすべての人とお友達になれる、ということです。 


もうひとつ。 

弟子たちが語っていた諸国の言葉を聞いた人々がいます。 

この人たちは外国からイスラエル、エルサレムに帰ってきた人たちです。 

どうして、この人達は外国で暮らすことになったのか。 

それは戦争に負けたからです。 


イスラエルは、周りの国々と戦争をします。 

そして負けると人質、捕虜として勝った国に連れていかれます。 

それは悲しいことです。 

つらいことです。 

思い出したくないことです。 

その国で覚えた言葉。 

本当はイスラエルの言葉が自分たちの言葉なのに、

よその国の言葉を使わなければならない。 

その国で覚えた言葉。 

悲しい気持ちと一緒の言葉です。  


エルサレムに帰ってきたら、使わない言葉でした。 

使ってはいけない言葉でした。 

その外国から帰ってきた人たちの耳に入ってきたものは、

自分たちが、覚えた言葉です。 

悲しさとくっついていた言葉。 

使ってはならないと思っていた言葉です。 


その言葉が神様をほめたたえている。 

明るい言葉としてエルサレムで大声で話されている。 


 私たちにもあります。 

思い出したくない失敗。 

忘れてしまいたいこと。 

私たちのこれまでにあります。 

 それらは暗い時間、

暗い記憶です。 


 忘れたい言葉 

それが明るい言葉となって語られている。 

 暗い時間 

それが明るい時間となって帰ってくる。 


どんなにつらく、悲しいことでも それが、

そのままということはありません。

 必ず明るいものになります。 

必要なもの 

大切なものになります。  


どんな時も私たちにいらない時はありません。 

どんなに遠くても私たちにいらない場所、いらない人はいません。 


ペンテコステの日にエルサレムの人々が知ったことです。 


それは今日の私たちも同じです。 

 すべての時間 すべての場所 

 

全部、明るい。 


 ペンテコステの礼拝でそのことを覚えてください。 



主日礼拝  

ペンテコステは教会が生まれた日。 

教会。

それは世界の象徴。 

ペンテコステに教会が生まれた。 

それは世界が生まれた。 

世界とは本当はこういう所と示された日。


ペンテコステの物語は「空間」と「時間」を語っている。 

時空という座標軸。 

それは世界を表す座標軸。 

空間を語る。 

時間を語る。 

世界を語り始める。 


主イエスが天に帰られてから使徒たちが集まっていると聖霊が一人ひとりのうえにとどまる。 

すると使徒たちは諸国の言葉を語り出す。 

ガリラヤの者が彼ら自身、聞いたことも、話したこともないような言葉を語り出す。 

空間で起こっていること。 

言葉は距離を持っている。 

通じる圏内。 

通じない圏外。 

言葉は距離を持っている。 

遠くに行けば言葉は行き止まりに出会う。 

その行き止まりは「壁」になり「溝」になる。 

言葉は通じない。

断絶を作り出す。 

使徒たちが語った言葉。 

ガリラヤの者でありながら、「壁」の向こうに行った。 

「溝」を飛び越えて行った。

断絶をなきものにした。 

どこまでも行ける。 

空間に隔たりはない。 


 空間とは何か。 

区別の必要のない所。 


 時間とは何か。 

使徒たちの言葉を聞いて表に出てきた者たち。 

彼らは信心深いユダヤ人とある。 

この当時、終末思想が覆っていた。 

ローマ帝国との衝突。 

メシアの待望。 

国の復興。 

新しい時、終末の期待が高まっていた。 


外国で暮らすユダヤ人。 

彼らも終末を期待する者たち。 

終末はイスラエルで、エルサレムで迎えなければならない。 

彼らは住み慣れた外国から帰ってきた。 


そもそも彼らはなぜ諸外国で暮らしていたのか。 

割合で一番多いと考えられるのは戦争の人質、捕虜として強制されたこと。 

捕虜にされたのは数世代前の祖先であろう。 

いく世代もユダヤを離れ外国で暮らしている。 

終末待望を持っていることからも外国で暮らしながらも、

彼らはユダヤ人としてのアイデンティティーは失ってはいない。 


自分はユダヤの民である。 

そのアイデンティティーを持っている者が外国で暮らす。 

喜んで暮らしていたわけではない。 

敗北、屈辱、失望 様々な悔しく、悲しい思いと共に暮らしたいた。 

その者たちがエルサレムに帰ってくる。 

祖国だからと言って歓迎されるわけではない。 

捕虜として外国に連行された先祖を持つ。 

イスラエルの敗北の原因を作った者だから連行された。 

悪事を働いたから連れて行かれた。 

事実無根であっても、

数世代前に移住した者は 「ユダヤ人だ」と、どんなに名乗っても

「よそ者」としてしか認知されなかったであろう。  


生活をしていた国の言葉。 

それはエルサレムでは受け入れられない言葉。 

外国の言葉ということもある。 

それ以上に自分たちの歴史の汚点を思い出させるものが

諸外国の言葉を話すユダヤ人の姿であったろう。 


自分の暮らした外国の言葉。 

それは封印しなければならない。 

フタをしなければならない。 

決して、自分たちの過去と同じように、明るいところには出てきてはならないものだった。 


生まれ育った国の言葉を封印していた者たちの耳に飛び込んできたもの。 

それはかつての国の言葉。 

その言葉がイスラエルの神を讃えている。 


イスラエルの神を讃えるのはイスラエルの言葉でなければならないと言われていた。 

それが、諸外国の言葉で讃えられている。  

捨てなければならないと信じ込んでいた「言葉」 

それが今、用いられている。 

美しく、喜びにあふれて神を讃えている。 


 捨てなければならないものなど何もなかった。 

 忘れなければならない時間、歴史など何もなかった。 

すべては必要な時。 

大切な時。 


 時間とは何か。 

必要、不必要、 

色分けをしなくていい。 


空間とは何か。 

同じ者、違う者、 

色分けをしなくていい。 


色分けをしない。 

 それはすべてを愛せるということです。 

すべての人を。 

私のすべての時間を。 


 平和を作れます。 


愛と平和。 

それが実現できるのが、この世界。  


ペンテコステは教会について語ります。 

それは世界について語っています。 


 世界とは何か。


愛と平和のあるところ。     

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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