6月7日三位一体主日

伊藤大輔牧師

ローマの信徒への手紙5章2−4節


 9時礼拝  


教会の暦では今日は三位一体主日です。

 先週、ペンテコステをお祝いしました。 

聖霊が弟子たちに降り注がれた日。 

聖霊がしっかりと現れた日です。

 神様が揃いました。

 世界を造られた「父なる神様」。 

十字架にかかり復活された救い主

 「子なる神様」イエス・キリスト。 

そして聖霊なる神様です。  

神様は三つ 

でもそれは神様が三人いるということではありません。

神様はお一人です。

お一人なのですけど、三回、違う形で人に現れました。 

神様が変装して現れてきた? 

それも違うのです。 

どう考えていいのか、分かりませんね。 


ひとつのたとえをお話しします。  

私たちが歌っている讃美歌の楽譜を見たことはあると思います。 

讃美歌の楽譜は四段に分かれています。 

「ソプラノ」「アルト」「テノール」「バス」 と四段です。 

この四つは違うメロディーを持っています。 

別々の曲です。 

ところが、この別々の曲を一緒に奏でると、

今まで聞いたことのない美しい曲が現れてきます。 

バラバラのものを一つにすると、はじめて本当のものが見えてくる。  


ひとつのたとえですが、これと「三位一体」は同じように考えることができます。 

「父なる神様」「子なる神様」「聖霊なる神様」 

この三つの神様を重ねると、本当の神様がわかってくる。 

これは、神様を理解することだけではありません。 

私たちの時間 私たち自身を知るということも同じです。 

私たちは「楽しい時間」を知っています。 

そして「つらい」「悲しい」時間も持っています。 

できれば楽しい時間ばかりだったらいいのに。 

つらい時間はもう起こらなければいいのに。 

そう思います。 

でも、「楽しい時間」も「つらい時間」もしっかりと受け止めてみましょう。 

その時間を重ねてみましょう。 

今まで、気がつかなかった、私に与えられていた神様からのプレゼントが見えてきます。  

好きな人、苦手な人 私たちのまわりにはたくさんいます。 

好きな人とだけ遊んでればいい。 

そうではありません。 

好きな人とも、苦手な人とも、一緒に過ごす。 

そうすると、自分では想像もしなかったものと出会うことができます。  


三位一体の神様を知る。 

それはとても難しいことです。 

楽しいこと、つらいこと、 

好きな人、苦手な人、 

それを全部、大切にする。 

それもとても難しいです。  

でも、全部を大切にしてください。 


ひとつだけでいい。 そんな風に思わないでください。  

全部が大切。 

そう心に決める。 

それが信じるという心につながっていきます。 

全部を受け止めて、この一週間をしっかりと生活をする。 

今まで知らなかったものが見えてきます。 



 主日礼拝  


私たちは願いを持っています。 

信仰があれば、祈ることもします。 

叶えられる祈りもあるでしょう。 

しかし、どんなに祈っても、

どんなに願っても

かなわぬものをあるとことを私たちは承知しています。 

愛するもの、大切なものの、命の延命をどんなに願っても、 

限りのあることを私たちは知っています。 

願っても叶えられないものがある。 

ならば、願いなど無駄なのか。 

祈りなど、必要ないのか。 

神は私たちを最後には見捨てるのか。 


ローマの教会に手紙を書いたパウロは申します。 

「苦難」は「忍耐」「練達」へとつながり、 それは「希望」を生み出していくと。 

これはつらいことがあっても耐えろ 耐えていけば、

それがやがては希望に変わるという我慢を強いる言葉なのでしょうか。 

おそらく違うと思います。 

そして、神は私たちを最後は見捨てるのか、 

この問いについても「違う」と思います。 

では、どうして「違う」と言えるのか、 

そのことをご一緒に考えていきたいと思います。 


 本日は教会の暦では「三位一体主日」と言います。 

聖霊が降った出来事を覚えるペンテコステ。 

その一週間後の今日が「三位一体主日」となります。  

神様が揃った日。 

神様がはっきりとわかった日、と言う意味合いです。  

三位一体。 

キリスト教の根幹をなす神理解です。 

ですがこの三位一体はとても難解なものでもあります。 

教会の歴史の中で「異端」と呼ばれるものたちが現れてきます。 

はじめから「異端」になろうと思っていたわけではないでしょう。 

教会の教えを頑張って実行しているうちに、いつの間にかズレてします。 

もともとの教会と全然違うところに行ってしまう。 

それが異端と呼ばれるものでしょう。 


正統と異端、どこで別れるのか。

熊野義孝と言う私たちの大先輩の先生がいます。 

この熊野先生は「受肉」と「三位一体」を持っているもの これを正統と言い、 

異端はこのどちらかが欠落をしているものだ、と仰いました。 

それほどに三位一体は大切であり、

油断をするとズレてしまう難しいものなのです。 

三位一体は簡単なものではないのです。 

その簡単でない三位一体の理解を私たちはどのように始めればいいのか。 


一つの例えをご紹介します。 

9時礼拝でもお伝えしました。 楽譜の例えです。 

四声に分かれている楽譜は一つ一つ独立をしています。 

それぞれに異なる曲を持っています。 

その別々のものが重なると、それまで想像もしなかった、 

新しい音が、新しい曲が立ち現れてきます。 


各パートの曲を聞いて、それを頭の中で重ね合わせることをできる人もいるかもしれません。 

でも、ほとんどの人は人は重なった曲を聞くまで、 

それがどのような曲なのか、想像はできないでしょう。 


私たちの能力では、神様を別々に認識する それが精一杯なのでしょう。 

「父なる神様」 「子なる神様」 「聖霊なる神様」 

それを一つ一つ、認識する、それが精一杯です。 

でも、そこで終わってはならないのです。 

その神様を重ねてみる。 

言葉でも、音楽でも、体を使ってでも、重ねてみる。 

ほんの一瞬かもしれません。 

「神様て、本当はこういう方だったんだ」と知ることができます。  

同じことを繰り返しても、多分、同じものは帰ってこないでしょう。 

人の力では再表現を不可能です。 

三つの神様を一つとする。 

それはとても不安定なものです。 

分からなくなってしまうものです。 

それでも三つの神様は、ひとつなのだ。 

求めていく。 

それが三位一体の神様に向かう私たちの姿勢です。  

私たちの願いは聞き届けられない、と言いました。 神様は最後には私たちを見捨てると言いました。 私たちの願いとはそもそもどういうものでしょう。 

これが、かなったらいいのに、 

絶対これが必要、 

これが欲しい。  


パウロが手紙で、批判の対象にしている人々がいます。 

その人たちの特徴は「永遠の神を忘れて、偶像を拝んでいると」としています。 

「これが欲しい」 

それは執着、固執です。 

力いっぱい握りしめ、それによって助けてもらおうと考えます。 

命綱です。 

その命に固執する。 

おかしなことではありません。 

ですが、執着、固執をしているものは私の知っているものです。 

それがどの程度の力があり、 どの程度頼りになるのか、 分かっているものです。 

すなはち、私の理解下にあるもの。 

私以下のものです。 


偶像も同じです。 

私が固執するものです。 

固執できるとは私が、その中身を知っているということです。 

私が知ることができるのですから、偶像は私以下のものです。  


聖書が示す神は「三位一体の神」です。 

人の理解が簡単には及ばないもの。 

捉えようと思っても捉えきれないものです。  

私の願いは所詮、私の想像の範疇です。 

私の願いはその程度でいいのでしょうか。 

もっと大きいことを望んでもいいのではないでしょうか。

望まなくとも、私たちはもっと大きなものと出会うことができます。 

想像もできないものを知ることができます。 

それが聖書の世界観です。  


パウロは苦難はやがて希望になると言いました。 

我慢のススメではありません。 

私たちの願いは 

「神様、早く私に気がついて」 

「私のために動き出して」 

と神様を変えることを「願い」と思っています。 

でも、私の願いなどより、もっと大きなものを神が準備をしているとしたらどうでしょう。 

変わるのは、「神」でなくて「私」の方です。 


「苦難」は「希望」になっていく。 

それは我慢の時ではありません。 

私の想像を超えたものに出会う「準備の時」「成長の時」です。


私の理解の下にある「偶像」に固執することが「願い」ではありません 

私の理解を超えた「三位一体」の神を求めることが、私の「願い」を知ることになります。 

私の願いは、かなえられないのか。 

かなえられません。 

私の願いよりもっと素晴らしいものが準備されていますから。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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