6月14日礼拝
伊藤大輔牧師
ローマの信徒への手紙6章3−4節
ローマの教会に宛てたパウロの手紙。
ここにはパウロの世界観が記されている。
その世界観は、私たちと異なるのか、同じなのか。
この手紙の最初、パウロはその読者たちに向けて言葉を発します。
読者には二つのグループがいまます。
「ユダヤ人」と「異邦人」。
異なる背景を持ったグループです。
ユダヤ人。
神様から選ばれた選民です。
律法が与えられ、それをきちんと守っていれば、神様の祝福が約束された者たち。
ところが、彼らは律法を知っていながら、律法が指し示すものと違うことを行う。
腐敗した者、堕落をした者とパウロは嘆いている。
異邦人。
律法によれば、卑しい者でした。
神様から選ばれたユダヤ人が関係をしてはいけないほど距離のある者でした。
ところが、その異邦人が律法の指し示すことを行っている。
そのような言葉から、この手紙は始まります。
この言葉を考えることは、パウロの世界観を知る上でとてもいい材料になります。
この言葉の背景について考えてみたいと思います。
パウロは、神に選ばれた民としての自覚がありました。
律法を守れば神から祝福される。
パウロが信じて疑わなかった「答え」です。
ユダヤ人と異邦人は違う。
「答え」は区別をします。
正しいもの、間違ったもの その区別をします。
境界線を引き 分け隔てをします。
パウロは律法をきちんと守りました。
表面上は。
パウロの心の中では、いつも葛藤がありました。
表面では、律法を守っている。
だが、心の中では、それを守り切れていない。
全部をお見通す神様が、それに気がつていないはずがない。
守っているふりをして、何も守っていない。
私は神様から祝福をされるようなものではない。
なんと自分は惨めな人間なのだろうか。
パウロは信じて疑わない「答え」に苦しんでいました。
イエス・キリストが復活をした。
パウロは始め、そのような言葉を受け入れることはできませんでした。
受け入れられませんでしたが、そのことを前提に考えてみました。
「もし、イエスが復活をしたとしたら、どうなのか」
復活は珍しい現象として、人の興味を引くだけのものなのか。
もっと違うことが、何かがあるのか。
「答え」とは何か。
「答え」は揺るぎないもの。
誰しもが、信用するもの。
決まったもの。
動かないもの。
固定化したもの。
一時だけ通用する答えもあります。
そして絶対に揺るぎない答えもあります。
誰しもが受け入れざるをえない答え。
人は誰でも死ぬ。
「死」は誰もが認めざるをえない、動かない言葉です。
世界には動かないものがある。
ここから「答え」が始まります。
「答え」が世界を支えているとの人の考え方が始まります。
イエスが復活をした。
何が起こったのか。
人の持っている世界観に問いかけている。
世界へ挑戦している。
本当に「答え」はあるのか。
復活がある。
それは「死」がない、ということです。
固定化した、止まっているものが何もない、ということです。
パウロが人は死ぬと思っていた時。
律法が「答え」だと思っていた時。
「答え」がこの世界にはあると思っていた時。
ユダヤ人は優れていて、異邦人は劣ったものと考えていたでしょう。
それしかないと思っていた。
復活がある。
死がない。
「答え」の土台がなくなっていく。
ユダヤ人が腐敗し、異邦人が優れている。
パウロは、ありのままを素直に語ります。
固まった世界の中にもはやいません。
コロナ禍の折 私たちは一つの現実の前に立たされています。
取り返しのつかないもの。
失ったもの。
それが決定的な答えだと思わされています。
それゆえ怒りが生まれ、暴力も是認されるような事態も生まれてきています。
それが答えなのか。
答えは本当にあるのか。
答えはまだ、何も出ていません。
答えなどありません。
成功した答え。
それを見つけると、人はそれを手放すまいと必死になります。
執着、固執です。
自分は失敗をしたものだ。
それが答えだと思い込めば、 挫折、絶望を味わいます。
成功しても、失敗しても 答えがあると思えば 心が止まってしまいます。
パウロは世界をどのように見ていたのか。
世界は止まっていない。
ここが答えだ。
そんなものはどこにもない。
どこまでも進める。
どこまでも行ける。
答えはない。
分け隔ては消えていく。
互いに愛しあえる。
平和を作り出せる。
世界が本当の形を取り戻していきます。
パウロの見つめた世界観。
その世界は私たちが見ている世界と異なるのか。
同じなのか。
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