6月28日礼拝

伊藤大輔牧師

ローマの信徒への手紙9章14-18節  

世界観が変わる。 

自分の見ている景色が一変する。 

パウロは「回心」をしたと言われる。

それは宗教の鞍替えではない。 

世界観の一変。 

その体験は私たちと無関係ではない。 


この世界はどういう世界か。 

私たちは期待している。 

因果応報。 

正しいものが報われる世界を。 

ところが現実はそうならない。 

その時は人は呟く。 

「神などいない」


 私たちの世界観。 

それは原因と結果が結びついている世界。 

決定論の世界。 

それがあるべき世界だと。 


パウロもそう思っていた。

正しいものは神に認められ、悪事を働くものは神から裁かれると。 

その世界観の根底にあるもの。 

その世界観の神。 

それは決定論の神。 

決定論の神は扱いやすい。

神を喜ばせることも、怒らせることも私ができるから。 

良いことをして、喜ばせ、悪事を行って怒らせる。 

神のご機嫌を私が作り出せる。 

だがそれが果たして神なのか。 


今日に聖書の箇所は隣国、敵国、エジプトについて語ったもの。 

このエジプトにも、神は働き、王様を用いている。 

「神は憐れみたいものを憐れみ、頑なにしたいと思うものを頑なにする」

 神は勝手に振る舞う。 

ここに決定論はない。

人が神のご機嫌を取ろうとしても神は勝手に振る舞う。 

本当の神とはそういうものであろう。 

決定論。

予定調和。 

そのような企ての中に収められるものが神ではない。 

神は支配されない。 

神は依存していない。 

神は自由だ。 


イエスとその弟子たちの勝手な振る舞い。 

律法を守らない言動。 

それは律法を軽んじているからではない。 

律法が本当に語りたいこと、人は自由を恵みとして与えられている。 

その真実を表すために、イエスや、弟子たちの言動があった。 

パウロはそれに気がついた時、世界観が変わった。 


律法を守る。 

神に褒めてもらおうとして律法を守る。 

それは神に依存している。

神に支配されている。 

自由な心がそれを行うのではない。 

偽りの行動。 


神が自由である如く、神に似せて造られた人も自由であるなら、

何にも依存、支配されることなく、自由なる心に任せる。 

「何をしてもいいなら、偽りも、盗みも良いのか?」と言うものがいる。 

偽り、盗み、そこには誰かへの怒りがあるのではないか。 

自分が可愛いという執着があるのではないか。 

「怒り」も「執着」も心が囚われているから生まれる感情。 

自由ではない。

心が自由なら、そのようなものに興味はない。 

自由なる心は執着がないのだから 「自分」も「他者」も意識しない。 

慈しみと、愛が生まれてくる。 

律法の言葉を自ずと実現している。  


不自由な心が行う「律法」の厳守。 

自由な心が行う「律法」の実現。 

偽りと真実。 

似て非なるもの。  


神も、人も、この世界も、「自由」である。 パウロが出会った世界観。 

私は、今どのような世界で暮らしていると思っているのか。 

パウロの思いと照らし合わせ問い直したい。  

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

0コメント

  • 1000 / 1000