7月5日礼拝

伊藤大輔牧師

ネヘミア記9章9−12節  

バビロニアに50年捕囚されていたイスラエルの民が帰還をする。 

その民の中でネヘミアは荒廃した神殿を再建する勤めを負っていた。 

神殿の再建、それは国を再建すること。

 国、社会を作る。

それはどのようになされるのか。 


 奴隷から解放された時、ネヘミアは国の再建を語る。 

社会を作る。 

そこにはいつも奴隷からの解放がある。 

歴史的出来事の話ではない。 

私たちも同じこと。 

奴隷から解放をされなければ、社会は生まれてこない。 

奴隷とは一体、なんなのか。 


ネヘミアは国に帰り、民に命じる。 

「異民族から妻を娶るな」 

「異民族に娘を差し出すな」 

これだけを聞けば民族主義、狭い言葉に聞こえる。 

だが、ネヘミアの真意は単なる民族主義の勧めではない。 


そもそも彼らはなぜ異民族との家族関係を作ろうとしたのか。 

若者には恋愛感情が、その原因だったかもしれない。 

その恋愛感情も含め、彼らはなぜ異民族との関係を築こうとしてのか。  

若者は言うであろう。 

「この者と結ばれなければ、自分は幸せになれない」 

異民族と積極的に関係を築こうとするものも言うであろう。 

「あの国の資源、技術、富があれば、私たちの国は豊かになる」 


この考えの根底にあるものは何か。  

この者と結ばれれば私は幸せになれる。 

それは今の私はまだ幸せではない。 

本当の幸せをつかむためには、自分には足りないものがある。 

自分は足りない。 

すなはち、自己否定が根底にある。 

この国には足りないものがある。 

そこにあるのも自己否定。 

今の私では、今のこの国ではダメなのだ。  

そのダメなものを補うために、自分の不足を補うものを手に入れる。

 頼りにし、寄りかかり、依存をする。 

それなしでは自分はダメだ。 


依存とは支配の裏返し。

 自己否定から始めれば、依存、支配、奴隷へと進んで行く。 

そいうい心が社会を築けるのか。 


では、どのような心が社会を作るのか。 

ネヘミアは「異民族と関係を持つな」と言う。 

なぜ、彼はそう言うのか。 

そこにはネヘミアの世界観がある。  

この世界はどういう世界か。 

神が造った時、神は世界に何をされたか。 

神は世界を造り、それをご覧になり、こう言う。 

これでいい」と。 

肯定している。 

それに対し、人の心はどうか。 

自分はダメだ。 

否定している。 

 

聖書の言語「これでいい」

これは翻訳の可能性として、こうも言える。 

「美しい」 


聖書の世界で「美」とは対称性。 

不足もなければ、余分もない。 

いつでもどこでも、そのままでいられるもの、対称性。 

それが「美」。  


この世界を「美しい」。

 不足も余分もない。 

全部ある。

完璧。 

それがこの世界。  


「異民族と関係を持つな」

民族至上主義の言葉ではない。 

あなたは完璧だ。 

なのに必要もないのに、なぜ奴隷になろうとするのか。 

なぜ醜くなることを欲するのか。 


「異民族と関係を持つな」

どこかの何かなど必要ない。 

全て整っている。 

自分の「美」を思い出させるための言葉。

社会はどのようにして作るのか。 

不足があるとの不満から依存、執着でかき集めるて作り上げるのが社会ではない。 

この世界は美しい。 信じて歩み、作り出す。 

それが国となり、社会となる。 

不足があると思い込んでいる「自分」「社会」が真実のなのか。 

「美しい」と言われたものが、この世界、私なのか。 

 それを問い続けるものが社会を築いていく。 

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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