7月19日礼拝


9時礼拝

 西川優子神学生

出エジプト記16章2節~5節


今日は、とても不思議なお話です。

長い間、エジプトという外国で、つらい仕事を無 理やりさせられていたイスラエルの人たち。

その人たちを助け出すために、神様は遠 いふるさと、カナンを目指して旅立たせようと考えました。

そのためのリーダーとし て、モーセという男の人を遣わしました。

モーセは口下手で、みんなを指導するなん てとっても無理と思って困ってしまいましたが、

神様がいつも一緒にいて助けてくれ ました。  


さて、今日は旅の途中で食べる物がなくなって、

どうしよう、と困った時のお話で す。

さあ、みんなどうしたでしょう?  


モーセに文句を言いに行きました。

「こんなにおなかがすくんなら、エジプトにいれ ばよかった。エジプトで死んだ方がましだった!

どうしてこんなところに連れて来た のか。

私たちを死なせるのか」

と散々文句を言いました。  


モーセだっておなかがすいていました。

みんなに、こんなことを言われても、うま いことが言えなくて、困っただろうと思います。

ところが、その時助けてくれたのが 神様でした。

神様は、モーセにこう言いました。

「君たちのために、私が天からパン を降らせる」  


そこでモーセはみんなに、この神様の言葉を伝えました。

さあ、どうなったでしょう ?  


次の日の朝、みんなが寝ているテントの周りに、朝露がおりたのです。

そして、それ が乾くと、白くて、薄くて、壊れやすい食べ物になったのです。

味は、蜜の入ったウ ェファースのようでした。

みんなが今日一日食べるのにちょうどいい分量だけが、

その朝だけでなく、それから40年の旅の間、毎朝降ってきました。

みんなはこの食べ物 に名前を付けて、マナと呼ぶことにしました。  


こうして、神様の言葉によって、すべての人が、お腹一杯、食べることができました。

そのことを忘れないように、イスラエルの人々は、聖書に書いておきました。  


今、このお話を聞いて、私たちはそんな不思議なことが本当にあったのかな、と思い ます。

このお話が、今の私たちに伝えようとしていることは、いったい何なのでしょうか。  


実は、さっきみんなでお祈りした主の祈りの中に、秘密の答えがあります。

「我等 の日用の糧を今日も与えたまえ」というところがありましたね?

その、「日用の糧」 というのが、

「今日一日の食べる物」という意味です。

どの人もみんな、今日食べるご 飯がありますように、と神様にお願いするお祈りです。

イエス様が教えてくれたこのお祈りは、誰にとっても食べることがどんなに大事か、

お腹いっぱいの人も忘れない ように、他の人のためにも祈るお祈りでもあります。  


私たちが食べることができるのは、田んぼや畑でお米や野菜を育ててくれる人がい るから、

海でお魚を取ってくれる人がいるから、

動物を育てて、卵やミルクやお肉を 用意してくれる人がいるから、ですね。

けれども、実はその人たちを守り支えている、 神様がおられるから、でもあります。  


それに、神様は、私たちが毎日食べさせてもらっている生き物の命、それを生み出 している方でもあります。だから、食べ物は神様から来ていると言えるのです。  

そのことを忘れないために、このマナのお話はあるのです。

神様から始まるこの世界 、その神様に私たちは愛されています。

何があっても、神様は私たちを愛する。

どん なに文句を言っても、神様は私たちを見捨てない。

そして、助けはそこから来るので す。



主日礼拝

伊藤大輔牧師

出エジプト記16章2−5節 


聖書の民は自らの居場所を追われていく。 

アダムとエバはエデンの園を追われ、

息子のカインはアベルの殺した罪で家をで追われ、

バベルの塔では、勘違いした民が全世界へと散らされる。


 私たちも同じなのではないか。 

コロナ禍の中、日常が失われ、

これまでから追放されている。 


元の場所に、本来の場所に人は帰ることができるのか。 

聖書が持っている大きなテーマ。 


人は本来のところへ帰れる。 

それが聖書の示す世界。 

ただ、そのために人は備えなければならない。

会得しなければならないものがある。


 出エジプトの民は本来のところに帰るために40年の年月を費やした。

会得するために、備えるために必要な時間。 

その時間に彼らは何を学んだのか。 


 出エジプト、旧約聖書。 

ここで描かれる神は、残忍性がある。 

罪人を殺せと命じてみたり、戦争に加勢もする。 

イスラエルがエジプトを脱出するきっかけを作ったのも、初子を皆殺しにしたから。 


40年の間に民は「戒め」を与えられる。 

そこでの儀礼には、供え物が求められる。 

動物をささげること。 

旧約聖書の神は命を求めている。 

それは残虐な神なのか。 


そう受け止めたくなる記述が続く。 

だが、もう一つの受け止め方がある。 


戒めの中に他者の命を奪ったもの。 

そのものについての許しはないとある。 

自分のものではないものに手を出したから。 

一方、神は命を求める。 

自分のものだから。 

命は誰のものか。 

命を欲する神は、その所有者をはっきりと告げている。 

命は神のものだと。 


今日読んだ聖書で荒野で空腹を覚えた民は、モーセに文句を言う。 

その時、神は民に告げた。 

「今日、1日のパンを与える」と。  

人はどうすれば、本来の場所に帰れるのか。 

逆に考えるならば、何をすれば、そこへの道から外れるのか。 


命が誰のものか忘れてしまうから。 

命は自分のものと思ってしまう。 

自分のものと思えば道から滑り落ちる。 


命を自分で守ろうとすれば、心配になる。 

明日が、明後日が、未来が心配になる。 

命を守ってくれるものをかき集め、それを握りしめる。 

執着、固執が始まる。 

アダムとエバは自分の未来を自分の努力で守ろうとした。 

自分には欠けているものがある。 

それを補おうとして道を外れた。 

カインは弟の命は自分のものだと思い、家を追われた。 

自分に固執し、本来の場所を喪失する。 


命は神のもの。 

明日のパンは与えられない。 

明日ですら、人は自分で生きることができない。 

固執をしたくても何もつかむものすらない。 

それが本来の私の姿。 


 今日、目が覚めた。 

今日、生きている。 

この朝、この日、 神から与えられた。 


 私のものでない私の命。 

今日1日。 

ここだけを生きる。 

それだけで、本来のところへ私たちは進んでいける。 

行くべきところに行ける。   

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

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