7月26日礼拝

出エジプト記17章1−8節  

9時礼拝

伊藤大輔牧師

奴隷になっていたエジプトから約束の地へと旅するイスラエルの民の物語。 

旅の途中、喉が乾いた民はモーセに文句を言う。 

「私たちを死なせるつもりなのか」と。


つらい時、苦しい時、私たちは何をするのか。 

疑いだす。 

これでいいのか。 

イスラエルの民は神を疑った。 

神は本当に一緒にいるのかと。 


疑う心は、どうして生まれるのか。 

つらい、苦しい。 

それを私たちは喜んでいない。 

つらい目にあっている自分。 

苦しい自分。 

それは本当の自分ではない。 

自分が嫌になると疑いが始まってくる。 


こんな自分は自分じゃない。 

自分が自分を嫌いになる。  

エデンの園で暮らしてたアダムとエバも

「善悪の知識の木」の実を食べられない自分が好きではなかった。 

だから食べた。 

低いところに暮らしている自分たちが好きではなかった。 

だから高い塔、バベルの塔を築いた。 

人はいつでも、すぐに自分を嫌いになる。  


エジプトから、イスラエルを導き出したのは誰なのか。 

エデンの園を作り、人を作ったのは誰なのか。 

神が行っている。  

自分を嫌いになる前に、今の私があるのはどうしてなのかを思い出す。 

神がいるから。 

神の造った世界で暮らしているから。 

今の自分は、誰かが悪いからではない。 

今の自分を嫌いになるのを、待ってみる。

休ませてみる。 


こんな私でも「私」なんだ。 

私が「私」を受け入れる。 

私が見えてくる。 

私にできること。 

私にしかできないこと。 

 見えてくる。 


嫌いな私でも、私だからできることがある。 

私が見えてくる。 


どんな時でも 

前に

約束の地に進んでいる「私」が見えてくる。  



主日礼拝

西川良三神学生

出エジプト記には、イスラエルの民らが、先祖の地に向かって荒れ野を進んでいく際、モーセに不平、不満を述べながらも 、彼らに神によってエジプトの追っ手から守られ、飲む水が与えられ、食べ物も天からのマナ与えられたことが書かれて いる。

彼らはレフィディムというところで、再び、飲む水がない状況に直面した。

ここでは民らは単に不平を述べるだけでは とどまらなかった。

彼らはモーセと争って、水をよこせ、と要求する。

モーセは「なぜ私と争うのか。なぜ主を試すのか 。」と彼らに言う。

しかし民らは、モーセが自分たちをエジプトから導き出したこと自体を責め、

今にもモーセを殺そうと する勢いだった。

モーセはうろたえて神に助けを求める。

神はモーセに、長老数名を連れて、神がモーセにエジプトにいた ときに授けた杖を持って、

自分が立つ岩をたたけば民が飲む水が出る、と伝える。

そして水が出て、民や家畜らが水を飲 んだと同じ内容を扱う民数記に記されている。  


この物語の2節の7節に出てくる、「主を試す」「主を試した」ということが、ここでこの記事の編集者が示したかった大事 なテーマとしてとらえることができると言えよう。  

この「試す」という言葉は、旧約聖書に大変多く現れる。

ほとんどは、神が人を試す、あるいは人が人を試す、という場面 で使われている。

神が人を「試す」のはそれによって、ご自分に対する忠誠心を確かめるかあるいは、

あるいは難題を与え て成長していくものとして鍛える、

という教育的意味もあるかもしれない。

一方、人が人を試す場合、試験の時のように、 

その人がどれだけ能力があるかを知ろうとする場合、

人を鍛えようと教育的意味合いで行う場合、

さらに人に対し疑念が生 じてきた場合に、

相手が信頼に足る人物かを確かめるために行うことがあると言えよう。  


人が神を試す、ということを行なおうとする場合、

人間が神の能力を測ろうとテスト課す、

あるいは「教育的」見地から 神をためすなどとはありえない。

イスラエルの民が神を試した、と言うことは、彼らは神の存在を知りつつも、

神に対する 信頼、信仰を失いかけていたからと言えよう。

すでに民は何度も神からの不思議な力で助けられていたにも関わらず、

信じ 続けることが出来なかった。

民らに水が与えられなければ、彼らの言い分は、もはや神は自分たちと共にはいないことを証 明した、ということになる。

また要求通り水が与えられたとすると、またそれは神が人間の意志で動かされことになる。

そ れは人間につくられた神によることになる。

どちらにころんでも、本当の神への信仰を失わせる危険性のあることだった。 

しかし神はイスラエルの民に水を与える。

神は彼らを一貫して守ろうとされてきた方なので死なせるようなことは行わなかった。

しかしその与え方は、民らの想像を超えた、普通ならあり得ない「奇跡」によってだった。

神は一方的意志によ って人間の想像を超えたところで恵みを賜る方であることを示されたのであった。  


ここで私たちに問われているのは、

神が常に恵みを下さる存在であると信じ続けることが出来るか、と言うことだ。

神に 対してのみならず、周りの人間に対して、あるいは社会全体のこれからの在り方に対して、信頼を失わずにいられるかと言 うことだ。

それは特に困難な状況に置かれると揺さぶられる。  


今は荒れ野の中を人類が進んでいるような時代だ。

新型コロナウイルスの影響のもと、これまで与えられてきた私たちの生 活基盤が全くなくなるのではないか、という不安にさいなまれる時だ。しかし人類の歴史をたどると、

これまで様々な試 練の中で思いもかけず、解決がしめされてきた。

その根底には神は人間がだれ一人として滅ぶことを望んでいない。

どの ような人も救われることを望んでおられるのだ、

という信仰を持ち続けた人たちがいて、

忍耐しつつ協力して難局を乗り 切って来ることができたからだ。

我々は荒れ野でのイスラエルの歩みを通して信じ続けることの大切さを知ることができる 。

今までの恵み、そして日々の小さな恵みに感謝しつつ、

やがて夜が明けることを待ちつつ、希望を持って歩んでいきた いと思う。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

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