9月13日主日礼拝

伊藤大輔牧師

列王記上8章10ー13節 

ソロモンが神殿を建て上げた。 

イスラエルがエジプトを脱出してから約500年。 

彼らが大切にしていた「十戒」が記された石の板。 

それを収めるために神殿は作られた。 


「十戒」は「これこれのことをしてはならない」と禁止の言葉でつづられる。 

「禁止」 行えるから「禁止」される。 

実行できるから「禁止」される。 

「禁止」の対象は人が実行可能なもの、できるもの。  


おそらく人はなんでもできる。 

その人に向かって神はできるのは分かっている。 

だからこそ「それをするな」という戒めを与える。  


エデンの園での神様からの約束。 

「善悪に知識の木の実は食べるな」 これも禁止。 

できるのは分かっているからこそ「やめておけ」と言われる。 

しなくていいことはするな。


列王記、イスラエルの王様の物語。 

神殿を作ったソロモンも、その父ダビデも、その他の王様も、皆同じ。 

罪を犯す。 

その罪とはすべて「しなくていいこと」を行うこと。  


しなくていいことを、どうして人はしてしまうのか。 

エデンの園で蛇と対話をした人がその心を告げている。 

「私には足りないものがある」 そう思い込んだ時に人は「しなくてもいいもの」をし始める。 

「しなくていいもの」がある。 

しかし、「しない」だけで人の在り方としていいのか。 

人には「しなければならないこと」もあるではないか、と思いたくなる。 


「しなければならないこと」 そう思うものに「しなくてもいいもの」が混ざりこんでいないか。 

「しなければならないもの」は「しなくてもいいもの」ではないと、どこで言えるのか。 

見極める点はどこか。 


列王記にエリヤ物語が記されている。 

王様達の物語に挟み込まれるようにしてこの預言者の物語がある。 

その最初、エリヤが「やもめ」にかくまわれる場面がある。 


エリヤは女に願い出る。 

「パンを持ってきてくれ」と。 

これに対し女は答える。 

「私にはパンなどありません。一握りの小麦粉とわずかな油しかありません。それも食べてしまえば後は死を待つだけです」。 

エリヤは女に言う。 

「それでパン菓子を作ってくれ」と。 


なんとも身勝手な話と思えてしまう。 

女に同情したくなる。 

だが、女がエリヤの言う通りにすると、

いく日も食べ続けることができ、小麦も油も減ることはなかった。 


 女がエリヤにパンを与えること。 

これは「しなければならないこと」。 

これを行うための心とはどういうものなのか。 


エリヤの申し出を承諾できない人の心とはどういうものか。 

「なくなってしまう」 それは困る。  

なくなることが不安、心配、 

なくなることを防ぎたい。 

当たり前のこと。  


「しなければならない」こと。 

これが分からなくなるのは「不足」が起こるという予想が湧き上がるから。 


私には足りないものがある。 

「しなくてもいいもの」をするのも「不足への恐れ」であり、 

「しなければならないもの」をためらうのも「不足への恐れ」。 

油と小麦を使った女の家には次から次へとパンが出てきた。 

不足は起こらなかった。

不足など本当はこの世界にはない。 


 足りないものは何もない。  

「しなくてもいいもの」はしない。 

「しなければならないもの」はする。

 

信じる心がこれを見極め、行わせる。 


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