9月20日礼拝
9時礼拝
西川優子神学生
ヨハネによる黙示録 21章6節~7節
今読んだ「聖書」という本、これです。
今日読んだところは、その一番終わりの方です 。
では、反対に、一番初めには、何が書いてあるのでしょう?
読んでみますね。
「初めに、神は天地を創造された。」
今度は、聖書の最後の最後には、どんなことが書いてあるのでしょう?
見てみましょう。
「主イエスの恵みが、全ての者と共にあるように。」 と書いてあります。
伊藤先生がいつも、礼拝の終わりに祈ってくださるお祈りの中に、
同 じ言葉「主イエスの恵み」というのが、ありますね。
さて、今日の聖書の、このお話、「ヨハネの黙示録」を書いた人は、
天にいらっしゃる イエス様が帰って来てくれるのを、今か今かと待っていました。
なぜかと言うと、そのこ ろイエス様を信じて教会に行っていた人たちは、
ローマという国に、ひどい目にあわされ ていたからです。
そのためにたくさんの人たちが亡くなって、恐ろしく、とても悲しい毎日でした。
でも 、みんな仕返しなんかしないで、じっと我慢していました。
いつかきっと、イエス様が帰 って来て、新しい世界、新しい天地が始まる。
そうなれば、神様が私たちと一緒に住んで 、
泣いている人の涙を拭いてくださる、と信じていたからです。
今日の聖書の箇所で、イエス様は言われました。
「わたしはアルファであり、オメガで ある。初めであり、終わりである」。
これは、どういうことでしょう?
さっき読んだ、聖書の一番初め、つまり世界の始まり、
それより前からイエス様はおら れたし、
それからもずっと、見えないけれど、私たちと一緒におられるし、
最後にもう一 度、見えるお姿で私たちのところに戻って来てくださる、ということです。
つまり、どんな時でも、イエス様はそばにいて、
守り、支え、励ましていてくださるし「すべての人に恵みを与えて」くださるということです。
今日の聖書には、「命の水の泉」という言葉も、出て来ましたね。
これは、生きるのが つらい人には、イエス様は、もっとがんばれというのではなく、
「命の水」を飲ませてく ださるということです。
それは、悲しくてたまらない心が、
やさしい神様の力で、いたわ られて元気になって行く、ということです。
私たちが生まれるずっと前から、
いつも一緒にいてくださっていた神様は、そのことを 私たちがまだ知らなくても、怒りません。
いつか気が付いてくれるのを、待っておられま す。
主日礼拝
伊藤大輔牧師
ヨハネの黙示録21章16−17節
本日の礼拝は「年長者祝福礼拝」
「祝福」とはいったい何か。
黙示録は不思議な物語。
世界の根底、最後について語る物語。
この物語のクライマックス。
悪の代表のような赤い獣にまたがった女が登場する。
教会の者の「血」に酔いしれているもの。
教会が生身で立ち向かっては絶対に勝てないような相手。
この者が登場したかと思うとすぐに物語は、この者が地に倒れた、と記す。
どうして?と言いたくなる場面展開。
物足りなさすら感じてしまう。
なぜ、私たちはこの展開に物足りなさを感じてしまうのか。
ここにはある構造がある。
その構造は別の画面ではこのような物語として現れる。
主イエスが弟子たちにエルサレムで語る場面。
「少しも疑わず、この山に向かい海に飛び込めといえばその通りになる」。
聞かさえれた弟子たちも戸惑ったことであろう。
なんとも乱暴な言葉とも聞こえてしまう。
信じられない、との感想も持つ。
なぜ、信じられないのか。
根拠がない。
理由が薄弱。
根拠、原因、理由があって、
然るべき結果にたどり着ける。
「因果律」
それが整っていない、と私たちは言う。
黙示録の悪の権化が地に倒れる場面も、
倒される根拠、 敵の弱点を見つけたとか、秘密の呪文を唱えたとか、
そういう理由付けがあると物足りなさが解消される。
物語への物足りなさ。
それは因果律の欠如に由来している。
聖書の始まり 神が天地を造った場面。
神が「光あれ」と言う。
すると光があった。
ここにも因果律がない。
言葉が「光」を生み出す根拠を示せと言いたくなる。
聖書は因果律を承知している。
承知して、このような物語を記す。
なぜか。
因果律の世界観が絶対ではないから。
愛、正義、希望、真理、
原因があって生まれるものなのか。
振り返れば「あれば原因だった」と言うことはあるかもしれない。
だが、それが生まれるとき、根拠、原因、理由があるから、その結果に辿り着いたのか。
理由もなく、突然、結果に辿り着いたのではないのか。
聖書は「因果律」が世界で役に立っていることは十分承知している。
その上で語る。
原因が分からずとも結果が生まれることがある、と。
聖書の始まり 神の言葉がどうして「光」になったのか分からない。
にもかかわらず、「光」が生まれた。
世界が始まった。
聖書の終わり黙示録。
人々に勧めている言葉がある。
「主よ、来てください」
神様を呼ぶ言葉。
そして黙示録は神の答えとして、こう結ぶ。
「然り、私はすぐに来る」
理由、根拠。
何も必要ではない。
何もなくとも「すぐに来る」
依存しなくとも 支配されなくとも 世界は整っている。
私は生きていける。
祝福とは何か。
根拠はない。
ゆえに説明の言葉もない。
私がいる。
そこに祝福がある。
本多記念教会
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