11月29日

イザヤ書2章2−5節

アドベントにはイザヤ書が読まれる。

主イエスの生涯とイザヤ書は何が重なっているのか。

イザヤ書はおよそ100年の時間を費やされた書物。

時間が変わっても変わらないものを知っている。

大国に囲まれたユダ。

ヒゼキヤ王は国を守るため外交政策を実施する。

アッシリアと結びついたり、エジプトと同盟を結んだりしながら、

国の安寧を図ろうとした。

これに対しイザヤは言う。

「国々に頼るな」と。

その100年後、バビロニアで捕囚を強いられていたイスラエルが解放される時、

再びイザヤの言葉として語られた。

「神のみを神としろ」と。

歴史を貫いたイザヤ書は何を見ていたのか。

ヒゼキヤは何故、諸国の力を求めたのか。

何故、捕囚から解放される時、人々は帰ることを恐れたのか。

自分一人では立てないと思ったから。

何かに縋らなければ生きていけないと思ったから。

イザヤはこれを叱責する。

イザヤは見ていた。

世界には変わらないものがある。

神は変わっていない。

艱難辛苦に人は出会う。

神が私を忘れた。

神が遠くに行った。

神は変わった、と人は思う。

だがイザヤはそうは思わない。

神が変わったからではない。

神が人に必要だから与えたものと考える。

神は変わっていない。

それは「永遠」とも表現できる。

イザヤは「苦難の僕」

人の罪を背負うものが世界を救うとの思いがある。

これを後の教会はイエス・キリストと重ね合わせた。

苦難の僕がいてくれてありがたい。

イエス様が罪を背負ってくれてありがたい。

これも正しい心の持ち方。

だが、イザヤや主イエスが私たちのたどり着いてほしいとことろはそこでなはい。

イザヤが語る「永遠」。

主イエスが示した「永遠」。

それはどこにあるのか。

何が永遠なのか。

命が永遠。

私が永遠。

私が有限ならば、人の罪を背負うは自己満足にもなりかねない。

人の罪のせいで私の命が変わっていく、奪われ、失われていく。

人に自分を明け渡したくはない。

私は永遠。

失うものなど何もない。

ならばなんでもできる。

人のために、敵のために、持てるものを投げ出しても、なんでもない。

自分一人では立てない。

何かに頼る。

それは自分が永遠だと信じていない。

自分には足りないものがある。

頼る、依存、積極的に奪うことも辞さない。

争いは欠乏の脅迫から生まれてくる。

永遠が私と共にある。

何も足りないものはない。

その心が生み出すものをイザヤは語った。

「剣を打ち直して鋤とする。

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず

もはや戦うことを学ばない」

平和を作り出すものになれるか。

永遠を信じられるか。

クリスマスを迎える季節にイザヤの言葉をかみしめたい。


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