1月10日礼拝
9時礼拝
マタイ福音書3章13−17節
伊藤大輔牧師
イエス様がヨハネから洗礼を受ける。
洗礼は水を用いる儀式。
水は汚れを落とします。
水は体を潤します。
水は元に戻します。
洗礼は人を元に戻す。
新しくします。
ヨハネのもとにファリサイ派、サドカイ派の人々もやって来た。
この者たちにヨハネは言う。
悔い改めに相応しい実を結べ。
洗礼には心備えが必要だと。
人はなぜ悔い改めができなくなるのか。
自分に不利益が来るから。
怖いから。
様々な理由がろうが、その時の人の心はどうなっているのか。
自分を正当化しよう。
批判に打ち勝とう。
心は強張り、硬くなる。
悔い改める心。
人に褒めてもらえない自分であっても、その自分を受け入れる。
硬い心ではできない。
柔らかい心。
その心が悔い改めを行える。
イエス様はヨハネから洗礼を受けた。
「神の子だから、必要ないのでは」とヨハネも思った。
柔らかい心は、自分は「神の子」だから、これで良い、と決めつけない。
新しくなること。
元に戻ることをいつも求めている。
洗礼を受けたイエス様に天から声が響いた。
「これは私の愛する子。
私の心に適う者」。
イエス様だけに言われた神様の言葉ではないはず。
柔らかい心
いつでも元に戻れる心を持つ者。
神様が望んでいる人の姿。
心配なことが起こる社会の中で
心を柔らかくしていく。
元に戻る心は、新しい世界を見つけ出せる。
主日礼拝
マタイによる福音書2章13~23節
西川優子神学生
私の故郷は長崎県の五島。
カトリックの教会が身近にあり、
いわゆる聖母子像、イエス様とマリア様という組み合わせには、慣れ親しんでいた。
しかし、そこにヨセフが描かれていないことを、なぜか不思議に思っていなかった。
それほど目立たないヨセフという人を、今日の箇所では中心において物語っている。
東方から来た博士たちがイエス様に黄金、乳香、没薬を捧げたと聞いて、ヨセフはただ
ならぬ不安を感じたのではないだろうか。
きっとそれはヘロデ大王の耳に入るだろう。もしかするとこの子供はヘロデににらまれ、
ひどい目にあわされるのではないか、という恐れに、ヨセフは囚われたのではではないか。
そんな時、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げろ。」
この言い方で気が付くのは、「子供と妻を」ではなく、「子供とその母親を」と言って
いるところ。
なぜこのような、ちょっと距離のある言い方をするのだろうか。
結婚前ヨセフは神様に「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言われた。
その時ヨセフは黙ってそれに従った。
そして今、マリアと既に結婚している。
とはいえ、ヨセフにとっては、この二人が、自分の子、自分の妻という実感が、いまだに持てなかったのかもしれない。
この時ヨセフ一家のいたベツレヘムとその周辺では、
博士たちに侮辱されたと思ったヘロデによって2歳以下の男の子が皆殺しにされたということが起きたとマタイは語っている。
そして、虐殺された子供たちとその母親たちの苦しみを、つぶさに描いている。
バカにされたと思った時、ヘロデはこういう残酷な仕打ちをする王様だった。
この、「バカにされる」という言葉は、実は一番多く使われているのはヘロデではなく、
十字架につけられたイエス様に対して、である。
イエス様は、神の子。バカにした人たちを滅ぼすことだってできる。
しかし、そうはなさらなかった。
黙って耐え、殺される方、十字架にかけられる方を選ばれた。
ヘロデとは正反対の王だった。
そんなヘロデ大王もヨセフ一家がエジプトに避難中、ついに死んでしまう。
ここで再びヨセフに主の天使が現れる。
「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行け」
私はここを読んで、ヨセフは、エジプトからイスラエルの民を導き出すように言われた
モーセのようだな、と思った。
モーセは、自ら進んでその役目を買って出たのではなかった。
ヨセフも同じ。マリアとの結婚をやめようと思っていたのに、
マリアを妻として迎え入れるように神様に言われ、
生まれた子供は自分の子供ではないのに、一緒に連れてエジプトに逃げる、イスラエルに連れて帰るという大役。
なぜ自分が?と思いながら、だったのではないだろうか。
天使がヨセフに命じたことは、どれもヨセフにとって、受け入れがたいことだった。
マリアを受け容れたくなんかなかったし、自分の子供でもない子供を、
一緒に連れて行きたくなんかなかった。
しかし、「受け容れなさい、連れて行きなさい」と天使は三度も告げる。
ヨセフはどうしたか。
彼はこの度も、天使のお告げに従う。
避難先のエジプトから、子供とマリアを連れて自分の国に帰った。
実はヨセフの言葉は、なんと聖書に一言も出て来ない。
彼の従順、彼の行動のみが、聖書には描かれている。
さきほど私は彼のことをモーセのようだ、と言った。
実はモーセとヨセフ、この二人を支えた神の言葉は、全く同じ言葉だった。
モーセが神に言われたこと。
「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。」
ヨセフが主の天使に言われたこと。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。
『神は我々と共におられる』という意味である。」
「神が共におられる」ことこそ、ヨセフを一貫して支えた神の働きであった。
この言葉は、単なる言葉ではなく、力があった。
本当に神はヨセフを支えた。
ヨセフは、だから本当は何も心配していなかったのかもしれない。
神様さえついていてくれれば、何があってもどうにかなる。
そもそも神がヨセフを一緒に旅に連れ出した。
神という同行者に、ヨセフはいつも支えられていた。
だから、マリアとイエス様を受け入れ、一緒に旅をすることができた。
神の声に従ったヨセフは、では何をしたか。
それはまず、立ち上がること。
そして、マリアとイエスに、「一緒に行こう」と言って一緒に歩んだこと。
今日の物語は、口が達者でなくとも、神に従い立ち上がったヨセフ。
そのヨセフを神が導いた物語であった。
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