4月11日 主日礼拝

伊藤大輔牧師

マタイ福音書5章27ー32節

「姦淫をするな」

「妻と別れる時は離縁状を渡せ」

この戒めを主イエスは徹底する。

それはただ男女の関係に止まるものではない。


人の妻を淫らな思いで見る。

この根っこを「正せ」と主イエスは語る。


人の妻。

これは私次第ではないもの。


人の批判、意見、言葉。

自分の身体。

これらは自分でどうにかしようとしてもどうすることも出来ない。

私次第でないもの。


私次第でないものに執着をする。

それは心が奪われていること。


自分の妻。

これは私が責任を負っていること。

私次第なもの。


私の責任。

私の選択、決断。

それらは私次第なもの。

それらを投げ出すというのも私の心が正しい状態にないこと。

心が何かに乗っ取られている。


なぜ、私たちは「私次第でないもの」「私次第なもの」この区別を混同し、

出口のない迷宮に迷い込むのか。


人の妻と結ばれたいと思うもの。

自分の妻と別れたいと思うもの。

彼らの心は乗っ取られている。

私には「別の人生があった」との思い。

別の人生があったのに、との思いに乗っ取られ、現状と違う何かを求め始める。


使徒パウロも律法を研究し、主イエスと出会い、律法の心を見つけ出したもの。

パウロが見つけた律法の心はフィリピの手紙で繰り返されている。

「どちらでもいい」

「どちらからでも行ける」

「行くべきところにちゃんと行ける」


十字架を目前にしゲッセマネで血の汗を流されて祈られた主イエス。

別の人生があったのでは、と思われた一人だろう。

どちらから行っても行くべきところには行く。

十字架の道を行かれた。


私が行くべき道を行く。

それは挫折をしても、道を阻まれても、たとえ終わっても、

十字架の先に復活がある通り、また進んで行ける。

どこまでも歩める道を進んで行ける。


私には別の人生があったのではないか。

たとえあったとしても辿り着くところは同じところ。

ならばこの道を歩む。


その心があれば「私次第なもの」と「私次第でないもの」の区別はつく。

何にも乗っ取られていない本当の心が現れてくる。

神の御心を行うものになっていく 。

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