6月13日 主日礼拝

伊藤大輔牧師

マタイによる福音書 6章19−21節

イエス様の山上の説教は続く。

続いているが、その構造は変わらない。

心を乗っ取られるな。


人を気にすれば心は「人」に乗っ取られる。

富を気にすれば心は「富」に乗っ取られる。


「天に富を積め」とイエス様は言う。

「それはどういうことですか?」

ともしもイエス様に聞こうものなら

呆れて答えられるだろう。

「はじめっから言っているではないか」


山上の説教のはじめ

心の貧しい人々

義に飢え渇いているもの

義のために迫害されているもの

そういう人々は幸いだ、という。


どうしてか。

そのようなものはとても幸いとは思えない。

それが私たちの普通も捉え方。


これに続くのが

あなたは地の塩、世の光。

自分の塩味を捨て去るな

自分の光をしまい込むな。

自分を失うな。


イエス様が「幸いだ」と言うものたち。

このものたちは自分の塩味を捨てていない。

自分の光を隠していない。

それが幸いだと言われる人々。


富を天に蓄えるとはどういうことか。

はじめから言われている。

自分を失っていないもの。

「世」「人」「まわり」

それがどのようなものであろうと自分を失っていない。

心をどこか遠くに置き去りにしていない。


イエス様は同じ構造を表現を変えて何度も繰り返して語る。

どうしてなのか。


イエス様は誤解されているかもしれない。

「つらいが頑張れ」

「神を信じて迫害されてもいつかは報いがある」

辛さを奨励してるのがイエス様だと。


そういう面がないとは言えない。

ただ、イエス様が山上の説教を通して私たちに伝えてることは

「いつかは報われるから頑張れ」ではなかろう。


楽しいから

おもしろいから

やってみろ


味を失わずに人から理解されない。

光を輝かせて予定の道を進めなくなる。

想像すると怖い

行きたくない

と思う。


ならば人に心奪われ、富に心を奴隷にされて楽しのか。

この世のものに振り回されることが楽しいのか。


「楽しい」

感情の言葉故かイエス様は用いていない。

ただイエス様は言っている。

「幸いなるかな飢え渇いているもの」

「幸いだ」

「こういうことが幸福なのだ」と言う。

自分を失わず、その結果の迫害。


本人は知っている。

自分を偽っていない。

これ楽しい、と。


楽しい

おもしろい

心が支配されていては味わうことができない。

自由な心。

わたしを見失わない心

広く大きなところにある心

自由な心が「楽しい」と出会える。


おもしろいからやってみろ

イエス様のすすめ。




本多記念教会

サイト

https://www.hondakinen-church.com/

facebook

https://www.facebook.com/hondakinen/

YouTube

https://www.youtube.com/channel/UCRRjBPZolWZWF7Z1jedKfqg

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

0コメント

  • 1000 / 1000