「立ち上がれ」

2017年10月22日

使使徒言行録3章1-10節

使徒言行録はこれまで何を語ってきたのか。

「天に昇られた主イエスはまたやってくる」

「使徒12人でまた始める」

「捨てなければいけないと思っていた言語が用いられる」

「ダビデが大切にしていた方を自分たちは殺してしまった。その悔い改めとしての洗礼」。

使徒言行録は告げている。

ここが終わりではない。

始められる。

何度でもやりなおせる。


始める。

わたしたちはどこに向かって始めるのか。

何を何度でも始めるのか。

どこに進むのか。


エルサレムの「美しの門」に足の不自由な物乞いが毎日運ばれてくる。

立つことができない。

力が入らない。

生きる気力もなく、ただ人にすがるだけ。

彼のいる「美しの門」。

神殿に入る最後の門。

その前に彼はいる。

神殿に入れずに彼はいる。


かつてモーセは約束の地カナンを目の前にし、入ることが許されず生涯を閉じた。

本当に生きたいところ、

目指していた所、

目の前にしながら獲得することができない。

人の姿、現実をこの「足の不自由な物乞い」は背負っている。


その者の前にペテロとヨハネが現れる。

ペテロが言う。

「わたし達を見なさい」。

物乞い、彼は生きるために、道行く人を探し続ける。

誰がわたしに恵んでくれるのか。

探し続ける。

「わたしを見なさい」。

心をあちらこちらに振り分けるな。


かつて台所でマルタは多くのことに心を配って焦り、

何もしない妹マリアを叱るようにイエスに頼んだ。

何もしない妹のマリア、

ひとつのことに心注いでいる。

それが良いとイエスは言った。


ペテロは言う「金銀はわたしにはない」。

心落ち着かないもの、心が拡散するもの、金銀。

わたしはそれを与える者ではない。

ひとつのことを与える。

「イエスの名によって立て」

物乞いは立ちあがり、入っていった。

神殿の中に。

行くことができないと諦めていたところに。


わたしたちはどこに向かうのか。

何度でもどこに向かうのか。

行きたい所。

行かなければならない所。

そこへ行く。

心を乱して行くのではない。

ひとつのことに心を注ぎ進んで行く。

わたしを支えるものがいる。

わたしに力を与えるものがいる。

神がいる。


行ける。

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