4月17日 イースター礼拝

4月17日(日)
イースター礼拝 礼拝説教
伊藤大輔牧師

ヨハネによる福音書20章11-16節

「婦人よ、なぜ泣いているのか」
主イエスの遺体がなくなった墓穴で泣き崩れるマリア。
彼女の前からは天使が
後ろからは園丁と思われているイエスから、同じ言葉が問われている。
「婦人よ、なぜ泣いているのか」
後ろと前
空間を表す言葉でもあるが時間を表す時にも後ろと前は利用される。
時空を後ろと前で表すのは多くの民族の世界の把握の仕方。
後ろと前が同じ。
ここに「復活」に込められたヨハネ福音書の思いがある。
私たちは「違う」と思っている。
時間も空間も「違う」で形成されていると思っている。
時代は変わって行くもの。
場所が変われば考えも、価値観も異なる。
あの人たちと、私たちとでは違う。
敵がいる。
味方がいる。
違いに囲まれて、私たちは生きていると思っている。
決定的な違いが生と死。
誰しもが今と違う「死」と直面する。
「違う」を引き受けざるを得ないと思っている。
後ろと前が同じ。
時空が同じ。
違わない。
それが聖書の考える世界。
何も変わらない。
違うと思っているのは人の脳だけで本当は何も変わらない。
ただそれを人は信じられない。
マリアも同じ。
だから同じ言葉を投げかけられても泣き止むことはできなかった。
「マリア」
後ろのものが彼女の名前を呼んだ。
「婦人よ」
集合、集まりとしての分類。
漠然とした中の一人としてしか自分は見られていないと思っていた。
それが名前を呼ばれた。
私が呼ばれた。
地の塩、世の光。
私には私だけが果たさなければならない使命がある。
賜物がある。
ただ、それは私だけに与えられているもの。
他のものに理解も応援もされない。
分からないから。
賜物が違うから。
それゆえ、私たちは自分の賜物を捨てようとする。
応援されない。
理解されない。
批判、拒絶をされるから。
私を捨てて、私たちになろうとする。
他の人と一緒に、同じになろうとする。
集合、集まりになろうとする。
主イエスがなくなりマリアは絶望した。
私のことを知ってくれるもの、理解してくれるもの、
愛するものがいなくなった。
マリアはその他大勢の誰かになっていた。
世界は変わって行く
違って行く。
私は私のままでいられない。
違う世界の一員になっていかざるを得ない。
私の塩味、私の光
塩を砂に変え、光を机の下に隠した方がよっぽどうまく行く。
世界は変わって行くのだから。
「マリア」
呼ばれるはずのない言葉が投げかけられた。
いるはずのない方がそこにいた。
世界は変わっていない。
何も変わっていない。
私は他の誰かではない。
私は私だ。
地の塩、世の光
それは必ず見られている。
受け止められている。
「先生」
もう呼ぶはずのない言葉がマリアから突いて出た。
私は私。
それを呼び覚まされた時、人は神を見る。
イースター
主イエスの復活。
マリアの復活。
私の復活。
 
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