4月24日 主日礼拝

4月24日(日) 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書12章46-50節

私たちは主イエスから何を受け取っているのか。
主イエスは何を語っていたのか。
キリスト教とはどのような宗教なのか。
主イエスは「自分の家族は肉親ではない」と言う。
この意図するところは何か。
「あなたは地の塩、世の光だ」と主イエスは語る。
掛け替えのない賜物を人は誰しもが持っている。
だが人はそれを見出せないでいる。
それは富に心が奪われるから。
人の言葉に惑わされるから。
自分以外の何かに心が奪われる。
そうなってしまうと私たちは自分の賜物を見つけることができなくなる。
自分以外の何か。
その最後に私たちが直面するのが家族。
愛の関係にあると思っている。
お互いの幸福を願っている。
そこにはなんの悪意もない。
それでもその家族に心が奪われれば人は自分の賜物を見出せなくなる。
主イエスは家族を全面的に肯定はしない。
「愛」と「支配」の区別が分かっているのかと問うている。
そこに区別があるとすら思っていないものがほとんどでもある。
だから多くの人が解決のできない悩みを抱えている。
「愛」と「支配」の区別があると思っていないから。
家族との関係を断ち切る。
私たちが本当の自らの賜物を見出すためにはその心構えが大切になる。
だがそれは家族を否定することでもない。
「家族を否定すればいい」
もし、そのような考え方を私たちが抱くことがあれば注意をしなければならない。
私は何かに心が乗っ取られようとしている。
家族を否定する。
これは不自然なこと。
その不自然なことを行おうとするのは心が私から離れてしまっているから。
ならばどうすればいいのか
家族に心を乗っ取られてはいけない。
逆に家族を否定することも心が何かに支配されてしまっていること。
何が正しい心の持ち方なのか。
パウロはフィリピの信徒への手紙の中で「どちらでもいい」と繰り返し語った。
家族と私の思いが合わない。
迎合か、断絶か。
そんな極論はいらない。
「どちらでもいい」
心を落ち着けて、相手と向き合ってみる。
迎合でも、断絶でもない道が必ず見つかる。
ロシアのプーチンはロシア正教の熱心な信仰者だと聞く。
残念だが家族愛、愛国と支配の区別がついていないのだろう。
彼の問題ではない。
私たち誰しもが愛と支配を履き違えている。
何にも支配されない心。
心静かに自らと向き合わなければその心を見出すことはできない。
主イエスは何を私たちに語ってきたのか。
キリスト教とはどんな宗教なのか。
心を真ん中に定める。
その修練を私たちに求めている。
 
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