8月14日 主日礼拝

8月14日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書 15章21ー28節

「助けてくれ」と懇願するカナンの女。
「あなたは外国人だから」と言って、女の願いを拒否しようとする主イエス。
およそ私たちの期待する主イエスの姿とは違う。
その主イエスが女とのやり取りから「あなたの信仰は立派だ」と言い
その時、女の願いは聞き入れられた、と物語はなっている。
この物語は何を読書に伝えようとしているのか。
この物語にいたる前、空腹の五千人に五つのパンと二匹の魚でその群衆に挑んでこいと、主イエスは弟子たちを送り出す。
嵐の中で漕ぎ悩んでいる弟子たちの乗ったボートに主イエスは歩いて近づいている。
「水の上を歩きたい」と言う弟子のペテロに答えて主イエスは招き寄せる。
だが数歩進んだ所でペテロは風に怖気付き溺れそうになる。
「なぜ疑ったのか。どうして信じないのか」
私たちは誰しもが「普通」を持っている。
社会と共有している。
五千人にわずかな食糧で対応して来いは普通ではない。
湖の上を歩いていくのは普通ではない。
風を怖がり、溺れそうになる。
そのペテロは私たちの「普通」と重なる。
だが、それは主イエスに言わせると「信仰がない」になる。
信仰とは何か。
カナンの人とイスラエルの人、これが交流するのは普通ではない。
敵対している関係だから。
宗教も文化も違うから。
何も共有するものはない。
一見、冷たい主イエスや弟子たちの対応。
これが普通の対応。
ところが、この女は引き下がらない。
主イエスに食らいつき、離さない。
女の中に何があるのか。
主イエスは自分の子供に与えるためのパンを子犬にやるものはいない、と言う。
これに対して女は子犬は子供たちの食卓からこぼれたものを食べます、と答える。
女の中にあるもの。
世界の大きさ。
世界はそんなに小さくない。
パンは子供に与える。
それで終わりですか。
終わりではないっでしょう。
もっとあるでしょう。
もっと大きいでしょう。
五千人を満腹させた弟子たちの体験。
自分の持っているものは自分が思っているものより、もっと大きかった。
湖の上を歩く。
普通はできない。
それは私の世界が世界全ての大きさだと思っている時の判断。
世界はもっと大きい。
できないと思っていることが出来る。
水の上を歩ける。
信仰とは何か。
世界はもっと大きい。
私の世界観のスケールを書き換えること。
もっと、この先がある。
もっと、大きなもの、私の知らないものがある。
この先へと思いを馳せること。
信じる。
この物語は読書に何を伝えようとしているのか。
ここが終点。
ここが限界。
これが世界。
ここからはどこにも行けない。
私たちの普通の言葉。
物語は聞いてくる。
試したのか。
そこが終点、限界。
どこにも行けない。
試してそうなったのか。
あなたの頭の中で作った世界がそうなっているだけだろう。
試してみろ。
進んでみろ。
あなたの知っている世界のその先にまだ広がっているものがある。
カナンの女は世界のその先に挑み、誰も知らないものをつかみ取った。
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