9月25日 主日礼拝

9月25日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

「腑に落ちる」

マタイによる福音書 16章21ー28節

あなたは私を何者だと言うのか。
主イエスから問われた弟子たちはその答えに窮した。
人々が言っている言葉なら口にできる。
だが私の言葉となると勇気がいる。
ペテロが口を開いた。
「あなたはメシア、生ける神の子」
自分の言葉を語った。
自分の腹の、心の底からの言葉を語った。
その姿勢に対して、主イエスは告げる。
それは「神が与えた言葉」だと。
自分の心の底にある真実だと思えるもの。
それは私の発見ではない。
神の言葉との出会いだと。
そこに教会は、神の国は、未来は、築かれると主イエスは約束する。
その立派な答えをしたペテロに対して、今日の読んだ聖書では、
「サタンよ、引き下がれ」
と悪魔呼ばわりされている。
一体何が起こったのか。
ことの発端は主イエスの言葉。
これから、エルサレムに入ったら、自分は殺される、と告げる。
これに対して、ペテロはある意味、普通の振る舞いをする。
イエス様をわきへ連れて咎め始める。
「そんなことはあってはなりません」
「そんなことを言ってはなりません」
このペテロの振る舞いに対して主イエスは悪魔呼ばわりする。
ペテロの何が悪魔なのか。
立派な答えをしたペテロと何が違ってしまったのか。
ペテロが気にしているもの。
「みんなの前でそんなことを言ってはなりません」
人を気にしている。
人が、他者が大事になっている。
立派な信仰告白をした時のペテロはどうだったか。
人の言葉を知りながらも、自分の言葉を探した。
自分の言葉に賭けた。
それがここに至っては人の視線、人がどう思うかが、気になっている。
人に心が乗っ取られている。
主イエスがいなくなる。
これもペテロにとってはショックなこと。
だが、これも、主イエスを頼りにしていること。
主イエスに依存している。
主イエスの期待する「信仰」とは、主イエスに頼り切ることではない。
主イエスさえも頼りにしないで、本当の自分を探し続ける。
これが私。
底の底で私が私を見つける。
私を見つけた時、主イエスが本当に言いたかったことを人は知る。
主イエスを捨て切った時、
私の底の底で主イエスと出会える。
人に依存しない。支配されない。
主イエスにも依存しない。頼らない。
主イエスはまた自分の十字架を背負えと言う。
自分の罪、自分の過ち、十字架。
それを人は背負いたくない。
なぜか。
人に見られたくないから。
私はもっと立派なもの。
もっと尊敬に値するもの。
私は私を飾りたい。
人が気になる。
十字架を背負え。
人に依存するな。支配されるな。
人など、どうでも良い。
心を自分に留めろ。
自分の心の奥底にもぐれ。
実は全部同じこと。
私が、私を受け入れる。
他者が貼り付いた私ではなく。
本当の私。
そこに神がいる。
神と出会うこと。
それが「生きる」になる。
私が私の命を手に入れることになる。
全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、なんになるのか。
もっとも大切な「私の命」
「私の命」は私の底の底にある。
私の命のあるところ。
そこは、神と出会うところ。
私は「私の命」と出会っているか。
神と出会っているか。
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